2012年10月19日 (金)

秘密基地のヴォイニッチ

今回ちょっと大作。

「ヴォイニッチ手稿」という手書きの本がある。知らない人には「何のこっちゃ」だろうが…これは、オカルトや不思議話の好きな人の間では有名な奇書。中身は、何語か分からない未知の文字の文章と、地球上には存在しない奇妙な植物、意味不明な裸婦の群れ、曼荼羅のような円…などの絵がびっしり230ページに渡って書かれている。1912年に発見され、以来100年間、様々な人間が解読を試みたが…まだ誰にも読めないらしい。現在は本の劣化を防ぐため、ある場所に厳重に保管され、実物を手にする事は出来ないようだ。その分、ネットに画像が公開されている。

その貴重本「ヴォイニッチ」を写し…しかも文章の「日本語訳」を書き込んだ人間がいたとしたら?

その時私は、やまくんの不思議体験の話を聞き取りしながら、たまたまネットでこの画像を見ていた。彼は子供の頃の秘密基地にあった謎のノートの話をした。そのノートの話というのが、なんか「ヴォイニッチ」に似てる気がしたので、冗談で画像を見せ「こーいうの?」と聞いてみた。そしたら…彼はあっさり「あーこれこれ」と答えたのだ。…え? これこれってなに?

話はこうだ。やまくん小学4年。一時いじめられてた彼も、その頃は友達と楽しくやっていて、よくある仲間内の「秘密基地」を持っていた。場所はただの資材置き場。積んである材木の隙間の空間に入り込んで遊んでたらしい。基地の中には、拾ったエロ本が数冊。(^^;)宝物やお菓子などは持ち込まず、エロ本も読んだら捨てていたようで、まあ基地というか「隠れ家」のような場所だったんだろう。何をするともなく、彼らはほぼ毎日そこに通っていた。

ある時雨が降った。その後日、やま少年と仲間が秘密基地に行ってみたら…中は汚れて泥だらけ。一応材木の天井はあるものの、防水まではされてないから、雨が染み込み放題だったようだ。ふと、誰かが見慣れないノートがあるのを見付けた。普通の、灰色の大学ノート。表紙は濡れたせいでボコボコになっている。めくってみると、途中から変な植物の絵などが20ページくらい、色鉛筆で描かれている。仲間たちはすぐ興味を失ったが、やま少年だけは植物に興味を惹かれ、しばらくそのノートを読み込んだ。絵の横には日本語で解説らしき文章も書いてあるが、やま少年にはまだ文が難しかったので、内容はあまり記憶がない。覚えているのは「めしべが4本」という一文だけ。彼は図鑑を写したものだろう、と思った。

だが無論、仲間の誰もそんなノートに覚えはない。…まずいぞ。ここに誰か知らない奴が来たらしい。見付かったんじゃ、もう使えないなあ… 彼らは相談し、結局その秘密基地は放棄する事になった。バレた秘密基地は秘密基地じゃないもんね。そんな訳で、やま少年はノートを置いて基地を去り、二度と戻らなかった。だからノートがどうなったかは分からない。

そして長い年月が経ち…ネットの画像を見て彼は「あーこれこれ」と思い出したのだ。だが考えて欲しい。やまくんが子供だったのはうん十年前。ネットなんかない。巷のオカルト話だって「幽霊はいるのか?」「エクトプラズム!」「UFO!」くらいのレベルで、口裂け女さえ登場してない時代。ヴォイニッチ手稿なんてコアなネタは、まだ日本人のほとんどが知らなかった頃だ。仮にノートがヴォイニッチの写しだとしても、そんな時代に一体誰が、何の資料を元に写したのか。データだって公開されていたか分からんのに。そして横に書かれていた文章が本当に「解読文」だとしたら、100年解けなかった謎をどうやって解いたか。…普通に考えれば有り得ない話だ。

だから。やまくんが「下手な植物の絵を、ヴォイニッチの絵と混同しただけだ」と誰もが考えると思う。子供の記憶なんて怪しいもんだと。でも、やまくんという人間を知ってる私には勘違いとは思えない。彼の記憶は感覚や映像を中心に働く。筋道立って論理的に話すのは苦手だが(だから、思い出を話させても要素がバラバラで、まとめるのが大変(^^))、その分、映像記憶には実に優れているのだ。それに元々オカルトが(恐いから)嫌いで、私が強要しなきゃ、絶対自分からそういう物は見たがらない。どこかで見て覚えていた…という可能性も薄いのだ。私は念のため、ネットに公開されているヴォイニッチの画像を全部彼に見せ、「この絵はあった?」と聞いてみた。彼はハッキリと「あ、これはあった」「これは無かった」「これは…不明」と判別した。リンクしていいかどうかだが…ここに貼っておく。

http://www.voynich.com/folios/

というページの
f2v f3r f3v f14r f18r f23v f37v f51r f67r(の左ページ)

これらは確かにノートにあったと言っている。…最近、「時空のおっさんの世界」でもよく登場する、重要そうな「中心に顔がある赤青白の太陽」の紋章もバッチリ入っている。(^^)彼の記憶に意味があるかどうかは不明だが、私は「めしべが4本」という文にすごく引っ掛かっている。…そんな植物この世にないと思うので。

追伸・なんでガキの秘密基地にそんなノートがあったのかも謎だが、当のやまくんはこう言う。「ノートを書いた人間は追われてたんじゃない? だから秘密基地にノートを放り込んで隠したんだよ。今まで誰も解けなかったんじゃなくて…実は解いた人間から消されてるんだったりして」…おおい恐いだろーが!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あり得ない日食 2

やま少年が、変な日食を体験した同じ年。

今度は、彼が学校で授業を受けている最中に異変が起きた。窓の外で、見る見る空が真っ暗になっって行ったのだ。生徒たちは驚き、教室がざわつき始めた。が、先生は平静を装っている。(装ってると子供でも分かる程度には驚いてたのだな(^^))無論この騒ぎは、やま少年の教室だけでなく全校的に広がっていた。

空から雷が落ちて来た。…いや、それは彼が「雷だ」と思っただけのこと。光には音がなかった。バリともゴロとも鳴らず、白く細い光がほぼ直線状に空から地面へと走ったのだ。あの、雷特有のジグザグの軌跡ではない。始めは1本。次に別の場所から2本。更に2本、最後に1本と、ランダムな位置から落ちて来る。彼の表現によると、「雷というより、火山の噴火の火柱が空から下に向けて走ってる感じ」だったそうだ。…だからって、これが雷でないなら何なのだ? ともあれ「雷」だと信じたやま少年は、空が暗いのは当然厚い雨雲のせいだろうと考えた。しかしすぐその考えは消えた。空はあまりにも真っ暗で、とても雨雲程度の遮光とは思えなかったから。生徒たちは教室の窓から不安そうに空を眺め、ああだこうだと喋っている。…やがてチャイムが鳴り、先生はそそくさと教室を出て行く。それが、その日最後の授業だった。

学校が終わってしまったので、生徒たちは帰らねばならない。しかし相変わらず空は暗いままだ。恐がって誰も帰ろうとしない。で、やま少年は友達と何を話してたかというと…実は誰とも話さなかった。(- -)彼はその頃、ちょうど少しいじめられていて、話す友達がいなかったのだ。仕方なく、同じ学校に通っている兄貴の教室に行く事にした。兄は5年生。コの字の校舎のほぼ反対側の教室にいて、運動場を通らなくても辿り着ける。ざわつく生徒たちの(別にパニックは起きてなかった)間を抜け、やま少年は兄の教室に向かった。階段の踊り場で、上級生が「あれ?なんで3年坊主がこんなとこにいるんだ?」と聞かれたが、素直に兄を迎えに来た事を話した。…だが兄は教室にはいない。先に帰ったのかな。…その時、やま少年はふっと思い出した。彼は放送部で、その日は下校の放送をする当番だったのだ。あわてて放送室に向かった。

放送室で、クラブの仲間と会って少し話し(こっちではハブられてなかったらしい)、いつものように「下校の時間です。用事がない人は家に帰りましょう」とやって…

そこから…何故か記憶が曖昧だという。真っ暗な街中を通って行ったのか。道は分かったのか。思い出せない。ただ、気が付くとやま少年は家にいた。しかし兄はいない。…いない筈だ。良く考えたら、彼の兄はその頃リューマチ(子供なのに…)で入院してたのだから。なら、なぜあの時兄の教室に迎えに行ってしまったのか? …全てが良く分からない。しかし、夢ではなかったと彼は言う。事態の前後は忘れても、あのとんでもない暗さだけは鮮明に覚えているから。彼はずっとこの出来事を「日食」だと記憶していたが…違うだろーこれは。ちなみに、この「暗かった日」の出来事について、その後彼が友達たちと語り合った事は一切無かったという。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月18日 (木)

あり得ない日食 1

やまくん小学3年の時の話。彼は言う。「その年は、やたら日食が多かった…」
この時点ですでにおかしい。年に何回も日食が起きる訳がない。皆さんご存知の如く、一度起きるだけでもあの騒ぎだ。…「うん十年に一度の天体ショーです!」「日食グラスを買いましょう!下敷きで太陽を見ないように!」「えー日食が起きる原理は…」学校では、生徒総出で観察。テレビは中継。コトが多少昔でも、日食が社会的イベントなのは変わらなかった筈だ。なのに、彼が記憶している日食は、誰もそんな話してないのに「ただ突然真っ暗になった」…それだけなのである。

順を追って書こう。バラバラなやまくんの記憶の話を繋ぎ合わせ、再構成してみた。まず「1度目の日食」。

その日、やま少年は一人家でテレビを見ていた。とある(後に超有名になる(^^))テレビ番組の初回、その番宣番組だったという。すると…突然停電になった。テレビも消えた。あわてて外に出てみると、空は真っ暗。夏の6時頃である。まだ日没の筈がない。それに…周囲の風景は普通に見えていた、というのだ。…変でしょ。空が闇で電気が消えていれば、普通は何も見えない。どう考えても尋常な状態ではない。しかし恐れを知らないやま少年は、ここで「あ、日食が起きた」と思い込んだ。日食という現象だけは知っていて、「日食とはそーいうものだ」と考えたんだな。恐がりもせず「わー面白い!」と喜び、家にいてもしょうがないので、自転車のライトを付けて近所を走り出した。

真っ暗な空以外は、いつもの町の風景。市場を通過し、やがて、家の前に縁台を置いて将棋を刺しているおっさん達を見付けた。(そういう人がよくいた時代だね(^^))いつもそこで将棋をしてる人達なので、やま少年は警戒感もなく自転車を止め、声を掛けた。「どうしてこんなに急に暗くなっちゃったんでしょうね?」…するとおっさん達は怪訝そうに手を止めて答えた。「え?いつもこんなもんだけど?」 なんとなく話が合ってない。構わず、やま少年は再び自転車で走り出す。「そうだ、学校に行ってみよう」

彼が通っている小学校に着いた。…門は閉まっている。誰もいない。校内には入れない。ふと空を見上げてみると…一部が「真っ暗」ではなかった。いつの間にか赤くなっていたのだ。毒々しい、オレンジ掛かった赤。「夕焼けの色じゃなかった」と彼は断言する。恐くはないが「変なの…」と思ったやま少年は、自転車駆って家へと引き返した。

家に帰り元の部屋にいると、しばらくして電気が付いた。外は外灯の明かりで明るくなった。本当に日が暮れたのである。そしてすべては普通に戻った…

以上がやまくんの「一度目の変な日食」である。…いや、それは日食じゃないって。この話、オカルト好きな人なら知っている「時空のおっさん」に酷似しているのだ。突然、今の世界とそっくりな別の空間に迷い込む話。異様に真っ赤な空。それでも「ほんとに日食だったんじゃないの?」と疑う人の為に言っておくと、彼が見ていたテレビ番組の放送年は分かっている。調べた所、その年に日食は起きてないのだ。前後数年も、ごく僅か太陽が欠ける日食があった程度で「真っ暗な日食」はあり得ない。一体やまくんの見た「真っ暗な空」は何だったのだろう?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月 5日 (月)

四国のダブルコラボ怨霊!

これは、やまくんが前の会社の先輩に聞いた話。本人の体験ではないが、あまりにショーゲキ的なお化け話なので、ぜひ記録しておきたい。(^^)

仮に、その人の名前をTさんとしよう。Tさんは、大学の卒業旅行で友人2、3人と四国に行く事にした。しかも自転車で。Tさんの自宅は神奈川辺りだからかなりの距離だ。海はフェリーで渡る。…若いから元気なんだな。(^^)その時代は自転車で全国を旅するのが流行ってたそうだ。何週間もかけ、自転車こぎこぎ、四国のあちこちの観光名所を回り、旅もそろそろ終わりに近付いていた時の事だ。

Tさんたちがとある海辺にたどり着いた時、日が暮れ始めた。見回したが、あたりには旅館も、民家すらない。今晩はどこに泊まろう?今から海辺を離れ、宿泊先を探すのは大変すぎる。…しばらく相談した結果、「海辺の適当な所で寝ればいーじゃん」という話になった。その海岸は岩浜で、あたりにはボコボコと大きな岩が突き出している。ついでに大きな洞穴もたくさんある。中には、人間数人くらい充分に寝られるスペースがあるのだ。寝袋は持ってるし、男同士のゴロ寝だから細かい事は気にしない。Tさんと仲間たちは、洞穴の中でもひときわ広く、居心地の良さそうな穴を見つけてそこに潜り込んだ。穴は深く、更に奥へと続いているようだったが、もちろんそんな奥までは入らない。海の見える入り口付近に陣取る。…さて寝る準備は整えたが、さすがに環境が違うせいか中々寝付けない。彼らはしばらくボソボソと話をていたが、やがて眠気が襲い、全員眠ってしまった。もう深夜になっていただろう。

…やがて、Tさんは何故かふっと目が覚めてしまった。もう一度寝ようと思うが、今度は寝付けない。仕方ない、海を眺めてタバコでも一服する事にした。洞穴からは海がそのまま見渡せる。これがホテルなら、海の眺望付きのいい部屋って事になるだろうな。(^^)…あれ? 海を眺めていると、波の音に混じって何か「ざわざわ…ざわざわ…」という妙な音が聞こえる。明らかに波の音とは別だ。Tさんは始めは「何かな~」というくらいで、そんなに気にしてはいなかった。…だが、やがてそれは音だけではなくなった。ざわめきと共に、何か黒く丸い物が波間に現れるのが見えたのだ。どうやら人の頭らしい。始めは1つ2つ、そして、数はだんだんと増えていく。それでもTさんは「え…こんな夜中に泳いでる連中がいるのか?」としか思わなかった。

黒い頭は、時間と共に徐々にその全身を現していく。数も、始めは数個だったものが、気が付けば何十体にも増えている。彼らは…ゆっくりとこちらに近付いて来ているのだ。ええっ!そ、そんなもの泳いでる普通の人間の筈ないじゃーないか!大体遠浅の砂浜じゃないんだから、海は深く、彼らの足元に歩ける海底がある訳がない。あたふたし始めたTさんを無視し、黒い人影はなおも近付いて来る。やがて、月明かりでそいつらの正体が見え始めた。それは…全員軍服を着た日本兵だったのだ!…「うぎゃーっ!」 Tさんは絶叫し、友達を揺り起こす。「これはやばい!」「逃げた方がいいんじゃないのか」…彼らは取り合えず洞穴の奥へと潜り込む事にした。真っ暗な穴の中を、懐中電灯の光でゴソゴソ進んでいく。すると。その奥から、誰が見ても「落武者」だと分かる、鎧を着けた男がこちらに向かって進んで来るのだ。うわーーっ前は落武者、後ろは日本兵!究極の怨霊タッグ!…どうやって脱出したものか、Tさんたちは転がるように洞穴から出て、岩をよじ登って浜に戻り、ひたすら走り続けた。

次の日。夜が明けてから、Tさんたちはあの洞穴に戻り、置いてきた荷物を回収した。後で地元の爺さんに聞いた話によると、昔その浜で輸送船が沈められたんだという。鎧武者の方はずっと前、このあたりが古戦場だった時代のものらしい。Tさんたちは知らなかったが、その洞穴は「出る」というので地元では有名なスポットだったようだ。(- -)…まあ日本中どこでも大抵は古戦場だし、戦争の傷跡もあるんだけどな。やたら変な場所で眠るのは危ないよ、というお話でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 1日 (日)

淀長さんの怪談。

ずいぶん昔。…と言っても年代はまるで分からない。「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」で有名な、映画解説者の淀川長冶さんがまだご存命だった頃だ。淀長さんが、自分の体験談としてある雑誌に「怪談」を寄稿していた。この方は映画の話以外は滅多にしなかったと思うので、当時でも「珍しいな」と思って強く印象に残っている。ただ、このエピソードが氏のエッセイ集か何かに収録されているものか、それともあの雑誌記事だけで消えてしまったのかが私には分からない。他に記憶してる人はいないだろうか。

内容の細かい所は忘れたし、違ってるかも知れない。が、大体こんな話だ。…淀長さんは母親をとても大切にしていて、親孝行で有名だった。しかしそのお母さんにも死期が迫ってきた。…ある時、淀長さんとお母さんがいる部屋の四隅に黒い影が現れた。ひざまずくような格好で、彼らはこう言った。

「お迎えに参りました」

すぐにお母さんの事だと分かった淀長さんは驚いて、「あと○ヶ月待って下さい」と言った。…この辺記憶がハッキリしない。3ヶ月だったか2ヶ月だったか。まあとにかく、それを聞いた黒い影たちは「分かりました」か何か言ってそのまま消えてしまった。そして、淀長さんが口走ったのと同じ時間が経過した頃、本当にお母さんは亡くなられたという。…こんな話。和田誠氏か、もしくは和田誠そっくりの見開きイラストが付いていた。「黒い影」は角のある悪魔のような形に描かれていて、多分死神だろうと思わせた。それが極めて丁寧な態度で、執事のようにうやうやしくお母さんを迎えに来たというのが鮮烈で、「やはり淀長さんの親孝行がアチラの世界でも分かっていて、そういう人にはそれなりの礼節のある態度で告知に来るんだろう」と思った記憶がある。

永遠に生きている人間はいない。…でもどうせなら、ずさんに「オラ行くぞ!さっさとしろ!」と連行されるのではなく、丁寧に優しく迎えに来てもらえるような終わり方をすべきなんだろうな。(- -)などと思わせる話だ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年4月25日 (月)

映画とシンセとアメリカの朝食

それがどのくらい珍しいのか分からないから、ちょっと書くのを躊躇してたが…連れ合いのやまくんに「ものーーーーすごく珍しい!」と太鼓判を押されたので、書いてみようと思った思い出。

高校時代。文化祭で映画を撮る事になった。…話せば長いので全部は書けないが、すったもんだの末、私が脚本・総監督をやる事になった。撮影機材はというと、当時だから「8ミリ」。しかも数学の担任の私物を借りての撮影である。(^^)私も含め、スタッフは無論みんな素人。映画マニアのような知識のある人間もいなかったし、全ては試行錯誤だ。私も見よう見まねの「絵コンテ」を切り、演技をどーこー指導したり必死だった(- -)訳だが… まあ人徳がないというかリーダーの資質がないというか、人が付いて来ず映画は何度も破綻しかけた。不評を買って詰め寄られ、一度リコールされ、結局やる人間が他にいないのでまた戻された。その上、コンクールを控えた吹奏楽部の特訓も重なっていたのである。(- -)…過労状態でヘロヘロのヨレヨレ。道が真っ直ぐ歩けない。当然夏休みは全部そういう事に消えたのだが、他の遊びたいスタッフにはよく逃げられた。…秋が来て、文化祭が近付いても中々完成せず、深夜近くまで男子宅に(- -)詰めてプロジェクターでフィルムを編集した。切って貼り切って貼り、フィルムを針で引っ掻いてレーザービームを撃つシーンを作った。(昔はそーいう事したんだよ。(^^)良い子のみんな)…誰も団結しない映画集団だったが、ただ一度、声も全部入れて最終ラッシュを見、ちゃんと映画っぽく仕上がってるのをスタッフで確認した直後だけ…「やったー!」と一同飛び跳ねて歓喜した。(^^)…その一瞬が全てだったな。

…ま、そんな話はどーでもいいいんで。その映画制作の最中の話。私も始めの頃はバカだから、無謀な野心に燃えて「テーマ音楽は自作しよう」とか考えていた。しかしギターやピアノは出来ないし、部活の吹奏楽器はバスクラリネットというどマイナー木管。不気味な森のシーンくらいでしか活躍しない(^^;)音質の楽器で、とーてーBGMには使えない。出来ればシンセサイザーが欲しかった。(^^)…しかし考えて欲しい。当時パソコンはまだないのだ。市販の電子音楽は普通はエレクトーン。…冨田勲の登場以降、喜多郎とかテクノポップでシンセサイザーの存在は有名になりつつあったが、やっと鍵盤の付いたやつが発売されたかされないかくらいで、基本プロしか持ってない。本格的なものは部屋一面を埋めるほどの大きさ。…そんな時代になんでシンセサイザーと思い込んだのか自分でも分からないが、とにかく私はある筈もないシンセサイザーを探し回っていた。すると、あるクラスメートの女子が「うちにあるよ」と言い出したのだ。…ええっシンセ持ってる? これはちょっと触らせてもらわねば!…という訳で、スタッフ一同ゾロゾロと彼女の家に遊びに行った。

…いわゆる「お金持ち」。彼女の部屋にその機械はあった。キーボードっぽいが、何か大量のツマミやスライドスイッチが付いている。電源を入れるとツーと音が鳴り、いわゆる「波形」が表示される。ツマミを切り替えるとそれが「正弦波」、「三角波」、「ノコギリ派」、あと何波だか分からん四角いやつ…と変わっていくのだ。うわぁ波形から作るんだ!すげえ!…しかし、何をいじれば「音楽」になるのかがサッパリ分からない。別の音と混ぜたり、波形の幅や高さを変えたりするらしいが、そもそもどんな波形ならどんな音になるのか知識がないのに、これで素人が音楽なんか作れる訳がない。…持ち主である彼女に使い方を聞くと、彼女も良く知らないらしい。そもそも音楽やってる訳でも何でもない子だ。「じゃー、なんでシンセサイザーなんか持ってんの?」と聞くと、彼女はポーッとした表情でこう言った。

「シンセサイザー欲しいって言ったら、パパが買ってくれたのー」

…パパ。(- -;)それ絶対ハンパな値段じゃないだろ。使いこなせないと分かってる娘になぜ… いや、言うまい。お金持ちの思考は私のごとき貧乏庶民には計り知れんのだ。ともかくその日はみんなでシンセサイザーをいじり倒し、うわーうわーと騒いで遊んで日が暮れた。(- -)…日程の余裕はないとゆーのに。

で。このシンセ、機種は何だったのか。… これが、不思議な事に今資料を調べても全く分からないのだ。当時一般に発売されていた製品など数える程なのに。年代からするとローランドVP330かと思ったけど、デザインが記憶と違う。海外のWavecomputer 340とかは波形の出る窓がない。カシオのVL-Tone VL-1でもない。こんなシンプルなボタン数じゃなかった。…あるぇ? 記憶では確かに「ホワイトノイズ」と「ピンクノイズ」を出すスライドがあった。ノイズの種類なんてこの時初めて知ったのだから間違いない。波形の出る小さな画面も。…専門家のプライベート機種だったのか? 誰か、そんな謎のシンセの事を知ってる人はいませんか。

…結論。結局「テーマ曲の自作」は幻に終わった。(^^)映画のラストに流す曲は、あるスタッフの強い勧めでスーパートランプというグループの「Breakfast In America」(アメリカで朝食を)に決まった。…結構画面に合ってて良かったから悔いはないが… 今でもこの曲を聞くと、当時の苦闘と挫折、シンセで弾こうと頭の中で作っていた自作曲の記憶が蘇る。ほろ苦いというより激苦の思い出である。(- -)

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2011年4月21日 (木)

ミシンの船に乗れた頃。

子供は何故か暗くて狭い所が好きだ。「母の胎内」をまだ覚えているせいかも知れない。そんなもんすっかり忘れたこの年(^^)だと、何がそんなに楽しかったのかもう良く分からないのだが…学校に上がる前か、上がって間もない頃は、ともかく「謎の隙間」があると潜り込んでいたような記憶がある。でも、世間で子供たちがよく入るらしい「押入れ」はあまり好きでなかった。私がよく入っていたのは「ミシンの中」だったのだ。

ミシン。…今はこの機械自体あまり使われなくなったが、当時の母親は衣料代を節約するため、家族の服なんかはよく手作りした。特に子供なんてすぐ成長して服が着られなくなるし、サイズが小さくて作るのも楽だから、子供用の服や小物を母親が縫うのは普通だった。まして私の母親は裁縫や編物が得意で、一時はそれでそこそこ稼いでいた(^^)くらいだから、ミシンはうちの必需品の一つだった。…でもそれは「機械」ではなく「家具」だったのだ。何故なら木製のキャビネットになっていて、両開きの戸を開けると中に椅子が収納されている「折り畳みミシン」だったから。

ミシンを開き、椅子をどけると足踏み板がある。上部にはコポッと内部に折り込まれたミシン本体。使う時はその本体をヨイショと起こし、上部に立てて支え板で止める。これで普通のミシンの状態に。…一方、キャビネット内部の側面にはでかいはずみ車が付いている。これに皮製の細いベルトをはめ、ミシンのホイールと連結させると、踏み板を踏んだ力が回転力となってミシンに伝わり、針がカタカタ動いて縫い物が始まる…という仕組みだ。上部から天板を引き出して道具を置くスペースも作れる。足踏みミシン自体はよくあったと思うが、こういう家具調のオシャレなものは少なかったんじゃなかろうか。…だから、後年さすがに疲れた母親があまり裁縫をしなくなっても、あちこち引っ越してからも、「ミシン家具」は長い間大事にされ、ずっとうちにあった。私にとっては「いつもいる家族」のような感覚だった。そして、戸を開くといつも薄暗く、謎めいた(子供目には(^^))踏み板やはずみ車のある内部は船の機関室のように見えた。

親のいない時を見計らい、椅子をどけてキャビネットに入る。さすがに立てないので、前を向いて背を屈め、踏み板の上に座る。乗っかると踏み板はユラユラ揺れ動く。姿勢が安定しないので、横のはずみ車の端を掴むと、それもユルユルと回転する。…少しも停止しない、何とも不安定な不思議さ。私にとってその遊びは、「嵐の海、船に密航して機関室に隠れているごっこ」だったのだ。戸を閉めると真っ暗になってさらに臨場感が増す。(^^)…現実には船に乗る機会などめったに無かったのに、この遊びのせいか、私はなんとなく「船に乗って見知らぬ世界を漂流する」ロマンを持っていた。冒険物や漂流譚が大好きになった。

しかし。少し成長すると当然ミシンの中には入れなくなる。(^^)他に「お船に乗るごっこ」ができ、一人で謎の無人島の夢をむさぼれる道具はない。多少欲求不満が溜まっていた。…そんな時に発見したのが「骨の折れた傘」だ。広がる部分の骨(親骨というらしい)がペキッと過度に曲がって格好悪くなったやつ。どーせ壊れてるんだから遊んじゃってもいいだろう。(^^)…これを開いて逆さにし、その上に乗っかった。天辺の突起が邪魔するので、床に置くと傾く。やや成長したと言っても子供の体重だから、動くとぐるんぐるん転がる。どぱーん!ざぱーん!…うわぁ大波だー!何とかしてあの島にたどり着くんだー!…とかやってると、残った骨が更に折れた。(- -;)親に見付かる前に片付けた。やっぱり、ヒンヤリした鉄製のあの踏み板の船っぽさには及ばないなー、とか思いながら。ミシンが客船なら傘はイカダという所か。

もう少し大きくなり、廃材置き場の隙間なんかに秘密基地を作った頃も、あの「ミシンの船」のようなドキドキ感は得られなかった。更に大きくなり大人になり、明るくて広い場所を動き回れるようになったって、遠い世界への冒険になど出られなかった。…子供の頃に見る「暗くて狭い場所」の夢は多分、体内回帰みたいな後ろ向きな意味ではなく、これから未知の世界へ出発する、という「夢の待機場所」だったんじゃないだろうかとふと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 6日 (水)

ホーホケキョとPC。

私が普段使っているパソコンは、ラップトップのXPだ。ラップトップだけで3台目だが、それ以前はずっとデスクトップの98を愛用していた。…というか、今でも愛用している。(^^)それがないと困るのである。何故なら昔、趣味で作曲するため、MIDI音源や作曲ソフトやスピーカー、外部録音用のMDプレーヤー等々を…全部この98対応で揃えてしまったからだ。今さらXP用に全部買い換えると高くつく。…そんな訳で、ウィルス対策ソフトに相手にされなくなっても、各種ダウンロードが使えなくなっても、作曲の時だけは今も98を使い続けている。

その98。実は当時、知り合いに手組みしてもらった「自作PC」である。その頃は自作が流行ってたんだよね。おかげで安くついたのはいいが…でかい図体でCドライブの容量が640kb(^^)しかなく、そこに各種ソフトやデバイスを放り込んだので、システム領域がぱんぱん。ずっとはち切れる寸前だ。時代が下り、主な作業はほとんどXPでするようになってからはメールソフトを削除し、多過ぎたメディアプレイヤーを抜き…色々やったんだがまだ多い。(- -)だからよく立ち上げの時トラブる。98は外付けのデバイスと相性が悪いとよく言われたが、それもあってか、起動で何もかもいっぺんに読み込もうとして失敗したり、フリーズしたりするのだ。大抵は再起動で直るが。…それだけでなく、まだまだパソコン素人(今でも大差ない(^^))の頃は、基本的な事を知らずに無茶をして何度も致命傷になりかけた。自分であーでもないこーでもないと調べ、色んな手を試してみるものの…なんせ手組みなのでマニュアルもない(^^)し、用語も難し過ぎて覚え切れない。時には更に悪化させてしまう。でも始めの頃はこの98の「製作者」が東京にいたので、ほんとの非常事態には泣きついて直してもらう事ができた。…しかし、やがて製作者ははるか遠方の故郷に帰ってしまった。もう電話相談くらいしか助力は仰げない。私は「父なし子」の98と取り残されてしまったのだ。(- -)

これでも、うちわのよーな5インチフロッピーディスクの時代からずっとパソコンやってたんだが…(- -)長い事自力で稼げなかった上、電脳と無縁な田舎住まいで、自分で備品を買って試したり勉強する事ができなかったのだ。当時はソフトももらい物が主。知り合いには「萌え萌えになる前」からの秋葉原の常連で、パソコンには詳しい人間が多かった。だから私のやる事は大抵ハナで笑われ、バカにされた。でも98の製作者がいなくなった以上、何かトラブルがあったらそいつらに相談するしかない。…そう思ってずーっと耐えていた。(- -)なるべく全部自分で解決できるよう、必死で勉強しながら。

それでも…(- -;)どーしても98がまともに動かなくなり、その類の知り合いに様子を見に来て頂かねばならない時があった。98は起動するのにも長い時間が掛かり、メンテの間ヒマだからか、2人でやってきた。はるか都会からこんな田舎にわざわざ来てくれたのだから、丁重にお迎えするしかない。(- -)…2階。彼らが98を前に、あーでもない、こーでもないと話している後ろに私は座っていた。パソコンの向こうは窓。春先である。うららかな空から、ウグイスの「ホー…ホケキョ」の声が聞こえる。私が「あー癒されるなあ」とか思ってたら…彼らがこんな事を言い出したのだ。

「あれ…録音だろ?」「そうだろうな」「鳥の声のするオモチャがあったよな。そんなもんどこで鳴らしてるんだ」

…はい?? オモチャって…そんな訳ないじゃん。私はそんなの持ってないし、他家の屋内のオモチャの音が聞こえるほど隣接してはいない。第一、田舎だからふつーにウグイスくらいいるんで。しかし…本物だよ、といくら私が説明しても、私の発言を軽んじてるからか、それとも普段都会にいてPCばかりいじっているせいか、彼らは決して信じようとしないのだ。「あんな声は出来すぎてる」「やっぱり作り物だろう」いや、だからね…(- -;)ここらはウグイスもコジュケイもヒバリも鳴くんで。シラサギもバサバサ飛ぶし、たまにキジが田んぼや農道を横断するし、朝方カニは上がって来るし、タヌキは車に轢かれるし、時にはウサギやイタチも…

こうして彼らはPCを調整し、あくまで「ウグイスの声は作り物」と信じたまま、千葉のど田舎の我が家を去って行ったのだった。直してくれたのに「あんたばか?」とも言えず…(- -)とうとう私はウグイスの濡れ衣を晴らしてやる事が出来なかった。…あれから何年経っただろうか。風雪と紆余曲折を耐え抜いた98は今も健在だ。今年の春も「ホーホケキョ」といい声でウグイスが鳴く。パソコンのデータより大切なものがある事を、今でも彼らに教えてあげたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 2日 (土)

素人に散髪を頼むなかれ。

高田馬場での下宿時代。…えー、私にその下宿を紹介してくれたのは、とある先輩の女性漫画家だった。(- -)それが誰かという事は…まあ分かる人には分かると思うので、あえて名は出さない。Nという人である。とんでもないキャラクターの人。(- -;)初めの頃は同じ下宿の2階の部屋に私、1階に彼女が住んでいて、何かというとよく行き来した。…だけでなく、彼女が漫画のネタに詰まったり悩んだりした時は、2階の私はよく襲撃され、一晩中グチの機関銃を浴びせられたりした。確かに世話にもなったが…振り回されて色々えらい目にもあったのである。そういう話はいくらでもあるが、全部詳細を書いちゃうとモンダイがありそうなので、当時のエピソードを一つだけ。

今もだが…その頃は特にビンボーだった(^^;)ので、私は床屋や美容院には行かなかった。伸びた髪は束ねてくくるだけ。更に伸びたら、仕方ないので自分で切る。そんな私を見て、ある時このNさんが「私が切ってあげる」と言い出した。腕に自信でもあるのか?…と思って聞いてみたらそうではない。「昔、少女漫画に載っていた髪の切り方があるから、あれをやれば簡単に切れる」と言うのだ。なんかすごくやってみたそうである。

そのやり方とは…「首を曲げ、髪を後ろから全部前に持ってきて降ろし、その顔面の前で垂れた髪の先を真っ直ぐに切る」という物だった。こう切るだけで、髪を後ろに戻した時ちょうどいいバラけ具合になるというのである。ほんとに大丈夫なのか…?と半信半疑だったが、彼女があまりにも自信たっぷりだったので、取り合えず頼んでみる事にした。…うつむいて後ろ髪をバサッと逆転させ、といてもらう。そんな体勢なので前は見えない。じゃり、じゃりと大胆に髪を切る音が聞こえる。…やがて終了し、また髪を後ろにバサッと戻す。

…Nさんは突然爆笑した。「わははは!『かまやつ』や~!!」

えっ!…かまやつひろし。そう、1970年代に流行った、あのマッシュルームヘアが伸び過ぎてザンバラになったような独特の髪型。私の頭は、その「かまやつヘア」になってしまっていたのだ…(- -;) 当時は80年代、いくらなんでもその頃にその髪型はカッコ悪過ぎる。…少女漫画に載ってたって、それ一体いつ読んだんだよ。冗談じゃない!…と言いたかったが、切ってしまったものは二度と再び戻らない。彼女もそうなるとは思ってなかったようだが、要は私の髪で実験してみたかっただけなのだろう。しかし、責任を感じるとか悪びれるとか、そーいう機能は彼女の性格の中には全く無かった。(- -;)…大ウケして笑い続ける彼女を尻目に、私は自分の部屋にしょぼしょぼと帰って行った。

それでも切った髪はいつか伸びる。(- -)…これ以降、私はまた自分で髪をくくり、自分で切るようになった。今でも余程の事情がない限り美容院には行かない。何されるか分かったもんじゃないもんなー。まあプロの美容師の人は、読みかじった漫画を参考に髪切ったりしないだろうけど…

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月29日 (火)

レンチキュラーってアレの事だよ。

レンティキュラー。もしくはレンチキュラー。…ぱっと聞いても何の事だか分からない。(^^)実はこれ、昔シールやワッペン、バッジなんかによく使われていた、「角度を変えると絵が変わるやつ」の名称なのだ。…そう、透明のスジスジの入ったシートの下に絵があって、1枚で2個以上の図柄が見られる、アレ。まさか…あれがそんな難しい名前だなんて、調べるまで知らなかった。(あまり知られてないとは思うが)今はネットにこの「レンチキュラー」を製作する会社が載っていて、頼めば自分の好きな図柄をレンチキュラーにしてくれるらしい。どころか、スジスジのシートだけ買い、フリーソフトで図柄を製作すれば、自分の家のジェットプリンタでレンチキュラーが自作出来てしまう。パソコンは万能だなあ。…しかしオモチャやおまけの範疇では、これが最近とんと見掛けなくなった。

私は知らないが、日本のレンチキュラー…「変わり絵」の元祖は、昭和35年に大ブームになった「ダッコちゃん」の目玉らしい。角度によって片目が開いたりつぶったりしてウインクする。当時はまだこのレンチキュラー印刷の技術が難しく、本物のダッコちゃんはウインクするが偽者はしなかったという。自分の一番古い記憶のレンチキュラーは、ハイアースという殺虫剤のオマケに付いていたバッジだ。ちなみにハイアースは水原弘でおなじみ、昭和レトロ看板の代表の一つ。当時はこのオマケバッジの効果もあって大人気だったと思う。バッジの絵柄は何かというと…「巨人の星」(^^)。星飛雄馬と伴宙太が交互に出て来るの。そんなん交互に出されても…とは思うが、なんたって絵が変わるだけで子供は嬉しかった。…その他に記憶にあるレンチキュラーといえば、アニメ「ひみつのアッコちゃん」のコンパクト。無論1970年頃の第一作な。これは大ブームになり、アッコちゃんの変身コンパクトは女の子の憧れの的だった。私も「欲しい欲しいー!」とワガママ言い倒し、何とか買ってもらった。飛び跳ねるほど嬉しかった記憶がある。アッコちゃんはコンパクトを開け、鏡に自分の姿を映して変身するのだが…このオモチャのコンパクトの鏡の部分に貼ってあったのが、キャラクターの絵が変わる「レンチキュラー」だった訳だ。でも…よく見るとこのコンパクト、アニメと全然デザインが違う。形もスリムでなく、ぶっとい厚みがあって「中に宝物を入れましょう」みたいな箱仕様になってる。これ、コンパクトと違う…(- -;)と気付いて夢破れた私は、やがてレンチキュラーを剥がし、ただの物入れとして使用した。

あと、記憶にある「市販のレンチキュラー」は、カバヤの「ジューC」というお菓子の蓋だ。大抵のレンチキュラーは全然違う2つの絵が現れる物だったが、このジューCの蓋は少し違う絵を重ね「2コマアニメ」になっていたのだ。例えば目玉がまばたく、鳥が羽を上下に羽ばたく、蕾が花になる…みたいな。これは…感動した。ただそれが見たくてよく買った。やがてジューCのパッケージデザインは変わり、レンチキュラーの蓋はなくなったが、ここから学んで(^^)教科書なんかによく「2コマアニメ」を落書きした。私はこれでアニメーションの原理を知ったのだ。…癖は治らず、高校の頃には教科書の隅に大長編パラパラマンガが描かれていた。(^^;)…が、まあそれは余談。

一時期これだけ知られたレンチキュラーが、なぜ最近世間の商品から影を潜めたかというと…印刷が難しく「経費が掛かるから」というのが理由らしい。(- -)じゃあなんで昔は経費を惜しまず、あれだけオマケに付けられたのか。噂では「ダッコちゃんの目は職人が手で描いていた」という話もあるから、要は人件費が上がったという事かも知れない。レンチキュラーの原理は…まあこんな記事より専門サイトで調べた方がいいと思うが(^^)、要は透明シートのスジスジがレンズになってるので、その下に細ーく分割した別の絵を交互に並べると、見る角度でレンズ右側のAの絵は見えるが、左側のBの絵は見えない…みたいな現象を応用したものだ。つまりスジシートの下は「細ーい絵のパーツ」だ。しかし一つのスジの幅は平均規格で0.4㎜ちょっとと言うから…その半分、0.2㎜にほんとに手で絵を描き込んでいたのか(^^;)どうかは定かでない。

レンチキュラーは変わり絵だけでなく、アニメーション、そして視差(右目と左目の角度差)を利用して立体映像なども作れる。技術や経費のある人は、自作するとかなり楽しめるだろう。…そんなん特にない私は、子供時代に作った「おっきなレンチキュラーもどき」なら語れる。(^^)昔、そういう付録があったのだ。あれがそうだと当時は気付かなかったが、今にして思うと原理はレンチキュラーだ。…まず紙に、1cmくらいの同じ幅の線を引いて切り込みを入れ、台紙にする。次に、この台紙の切り込みより小さい幅の紙を交互に切り込みに通し(縫い物みたいな感じね)、台紙から覗いてる部分に絵を描く。台紙には描かない。…で、一つ幅をずらし、今度は台紙に隠れてた部分に別の絵を描くのだ。通した紙を引っ張ると…交互に別の絵が出て来る訳さ。(^^)ただし台紙の部分は隠れたままだから、ちょっと欲求不満は残るけどな。子供の頃、「なんでこんな牢屋の格子みたいな、半分隠れた絵を引っ張らせるんだろー」…とか思ってた謎が、今ようやく解けたということ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«もう一人のやま少年。