2011年9月 5日 (月)

四国のダブルコラボ怨霊!

これは、やまくんが前の会社の先輩に聞いた話。本人の体験ではないが、あまりにショーゲキ的なお化け話なので、ぜひ記録しておきたい。(^^)

仮に、その人の名前をTさんとしよう。Tさんは、大学の卒業旅行で友人2、3人と四国に行く事にした。しかも自転車で。Tさんの自宅は神奈川辺りだからかなりの距離だ。海はフェリーで渡る。…若いから元気なんだな。(^^)その時代は自転車で全国を旅するのが流行ってたそうだ。何週間もかけ、自転車こぎこぎ、四国のあちこちの観光名所を回り、旅もそろそろ終わりに近付いていた時の事だ。

Tさんたちがとある海辺にたどり着いた時、日が暮れ始めた。見回したが、あたりには旅館も、民家すらない。今晩はどこに泊まろう?今から海辺を離れ、宿泊先を探すのは大変すぎる。…しばらく相談した結果、「海辺の適当な所で寝ればいーじゃん」という話になった。その海岸は岩浜で、あたりにはボコボコと大きな岩が突き出している。ついでに大きな洞穴もたくさんある。中には、人間数人くらい充分に寝られるスペースがあるのだ。寝袋は持ってるし、男同士のゴロ寝だから細かい事は気にしない。Tさんと仲間たちは、洞穴の中でもひときわ広く、居心地の良さそうな穴を見つけてそこに潜り込んだ。穴は深く、更に奥へと続いているようだったが、もちろんそんな奥までは入らない。海の見える入り口付近に陣取る。…さて寝る準備は整えたが、さすがに環境が違うせいか中々寝付けない。彼らはしばらくボソボソと話をていたが、やがて眠気が襲い、全員眠ってしまった。もう深夜になっていただろう。

…やがて、Tさんは何故かふっと目が覚めてしまった。もう一度寝ようと思うが、今度は寝付けない。仕方ない、海を眺めてタバコでも一服する事にした。洞穴からは海がそのまま見渡せる。これがホテルなら、海の眺望付きのいい部屋って事になるだろうな。(^^)…あれ? 海を眺めていると、波の音に混じって何か「ざわざわ…ざわざわ…」という妙な音が聞こえる。明らかに波の音とは別だ。Tさんは始めは「何かな~」というくらいで、そんなに気にしてはいなかった。…だが、やがてそれは音だけではなくなった。ざわめきと共に、何か黒く丸い物が波間に現れるのが見えたのだ。どうやら人の頭らしい。始めは1つ2つ、そして、数はだんだんと増えていく。それでもTさんは「え…こんな夜中に泳いでる連中がいるのか?」としか思わなかった。

黒い頭は、時間と共に徐々にその全身を現していく。数も、始めは数個だったものが、気が付けば何十体にも増えている。彼らは…ゆっくりとこちらに近付いて来ているのだ。ええっ!そ、そんなもの泳いでる普通の人間の筈ないじゃーないか!大体遠浅の砂浜じゃないんだから、海は深く、彼らの足元に歩ける海底がある訳がない。あたふたし始めたTさんを無視し、黒い人影はなおも近付いて来る。やがて、月明かりでそいつらの正体が見え始めた。それは…全員軍服を着た日本兵だったのだ!…「うぎゃーっ!」 Tさんは絶叫し、友達を揺り起こす。「これはやばい!」「逃げた方がいいんじゃないのか」…彼らは取り合えず洞穴の奥へと潜り込む事にした。真っ暗な穴の中を、懐中電灯の光でゴソゴソ進んでいく。すると。その奥から、誰が見ても「落武者」だと分かる、鎧を着けた男がこちらに向かって進んで来るのだ。うわーーっ前は落武者、後ろは日本兵!究極の怨霊タッグ!…どうやって脱出したものか、Tさんたちは転がるように洞穴から出て、岩をよじ登って浜に戻り、ひたすら走り続けた。

次の日。夜が明けてから、Tさんたちはあの洞穴に戻り、置いてきた荷物を回収した。後で地元の爺さんに聞いた話によると、昔その浜で輸送船が沈められたんだという。鎧武者の方はずっと前、このあたりが古戦場だった時代のものらしい。Tさんたちは知らなかったが、その洞穴は「出る」というので地元では有名なスポットだったようだ。(- -)…まあ日本中どこでも大抵は古戦場だし、戦争の傷跡もあるんだけどな。やたら変な場所で眠るのは危ないよ、というお話でした。

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2011年5月 1日 (日)

淀長さんの怪談。

ずいぶん昔。…と言っても年代はまるで分からない。「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」で有名な、映画解説者の淀川長冶さんがまだご存命だった頃だ。淀長さんが、自分の体験談としてある雑誌に「怪談」を寄稿していた。この方は映画の話以外は滅多にしなかったと思うので、当時でも「珍しいな」と思って強く印象に残っている。ただ、このエピソードが氏のエッセイ集か何かに収録されているものか、それともあの雑誌記事だけで消えてしまったのかが私には分からない。他に記憶してる人はいないだろうか。

内容の細かい所は忘れたし、違ってるかも知れない。が、大体こんな話だ。…淀長さんは母親をとても大切にしていて、親孝行で有名だった。しかしそのお母さんにも死期が迫ってきた。…ある時、淀長さんとお母さんがいる部屋の四隅に黒い影が現れた。ひざまずくような格好で、彼らはこう言った。

「お迎えに参りました」

すぐにお母さんの事だと分かった淀長さんは驚いて、「あと○ヶ月待って下さい」と言った。…この辺記憶がハッキリしない。3ヶ月だったか2ヶ月だったか。まあとにかく、それを聞いた黒い影たちは「分かりました」か何か言ってそのまま消えてしまった。そして、淀長さんが口走ったのと同じ時間が経過した頃、本当にお母さんは亡くなられたという。…こんな話。和田誠氏か、もしくは和田誠そっくりの見開きイラストが付いていた。「黒い影」は角のある悪魔のような形に描かれていて、多分死神だろうと思わせた。それが極めて丁寧な態度で、執事のようにうやうやしくお母さんを迎えに来たというのが鮮烈で、「やはり淀長さんの親孝行がアチラの世界でも分かっていて、そういう人にはそれなりの礼節のある態度で告知に来るんだろう」と思った記憶がある。

永遠に生きている人間はいない。…でもどうせなら、ずさんに「オラ行くぞ!さっさとしろ!」と連行されるのではなく、丁寧に優しく迎えに来てもらえるような終わり方をすべきなんだろうな。(- -)などと思わせる話だ。

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2011年4月25日 (月)

映画とシンセとアメリカの朝食

それがどのくらい珍しいのか分からないから、ちょっと書くのを躊躇してたが…連れ合いのやまくんに「ものーーーーすごく珍しい!」と太鼓判を押されたので、書いてみようと思った思い出。

高校時代。文化祭で映画を撮る事になった。…話せば長いので全部は書けないが、すったもんだの末、私が脚本・総監督をやる事になった。撮影機材はというと、当時だから「8ミリ」。しかも数学の担任の私物を借りての撮影である。(^^)私も含め、スタッフは無論みんな素人。映画マニアのような知識のある人間もいなかったし、全ては試行錯誤だ。私も見よう見まねの「絵コンテ」を切り、演技をどーこー指導したり必死だった(- -)訳だが… まあ人徳がないというかリーダーの資質がないというか、人が付いて来ず映画は何度も破綻しかけた。不評を買って詰め寄られ、一度リコールされ、結局やる人間が他にいないのでまた戻された。その上、コンクールを控えた吹奏楽部の特訓も重なっていたのである。(- -)…過労状態でヘロヘロのヨレヨレ。道が真っ直ぐ歩けない。当然夏休みは全部そういう事に消えたのだが、他の遊びたいスタッフにはよく逃げられた。…秋が来て、文化祭が近付いても中々完成せず、深夜近くまで男子宅に(- -)詰めてプロジェクターでフィルムを編集した。切って貼り切って貼り、フィルムを針で引っ掻いてレーザービームを撃つシーンを作った。(昔はそーいう事したんだよ。(^^)良い子のみんな)…誰も団結しない映画集団だったが、ただ一度、声も全部入れて最終ラッシュを見、ちゃんと映画っぽく仕上がってるのをスタッフで確認した直後だけ…「やったー!」と一同飛び跳ねて歓喜した。(^^)…その一瞬が全てだったな。

…ま、そんな話はどーでもいいいんで。その映画制作の最中の話。私も始めの頃はバカだから、無謀な野心に燃えて「テーマ音楽は自作しよう」とか考えていた。しかしギターやピアノは出来ないし、部活の吹奏楽器はバスクラリネットというどマイナー木管。不気味な森のシーンくらいでしか活躍しない(^^;)音質の楽器で、とーてーBGMには使えない。出来ればシンセサイザーが欲しかった。(^^)…しかし考えて欲しい。当時パソコンはまだないのだ。市販の電子音楽は普通はエレクトーン。…冨田勲の登場以降、喜多郎とかテクノポップでシンセサイザーの存在は有名になりつつあったが、やっと鍵盤の付いたやつが発売されたかされないかくらいで、基本プロしか持ってない。本格的なものは部屋一面を埋めるほどの大きさ。…そんな時代になんでシンセサイザーと思い込んだのか自分でも分からないが、とにかく私はある筈もないシンセサイザーを探し回っていた。すると、あるクラスメートの女子が「うちにあるよ」と言い出したのだ。…ええっシンセ持ってる? これはちょっと触らせてもらわねば!…という訳で、スタッフ一同ゾロゾロと彼女の家に遊びに行った。

…いわゆる「お金持ち」。彼女の部屋にその機械はあった。キーボードっぽいが、何か大量のツマミやスライドスイッチが付いている。電源を入れるとツーと音が鳴り、いわゆる「波形」が表示される。ツマミを切り替えるとそれが「正弦波」、「三角波」、「ノコギリ派」、あと何波だか分からん四角いやつ…と変わっていくのだ。うわぁ波形から作るんだ!すげえ!…しかし、何をいじれば「音楽」になるのかがサッパリ分からない。別の音と混ぜたり、波形の幅や高さを変えたりするらしいが、そもそもどんな波形ならどんな音になるのか知識がないのに、これで素人が音楽なんか作れる訳がない。…持ち主である彼女に使い方を聞くと、彼女も良く知らないらしい。そもそも音楽やってる訳でも何でもない子だ。「じゃー、なんでシンセサイザーなんか持ってんの?」と聞くと、彼女はポーッとした表情でこう言った。

「シンセサイザー欲しいって言ったら、パパが買ってくれたのー」

…パパ。(- -;)それ絶対ハンパな値段じゃないだろ。使いこなせないと分かってる娘になぜ… いや、言うまい。お金持ちの思考は私のごとき貧乏庶民には計り知れんのだ。ともかくその日はみんなでシンセサイザーをいじり倒し、うわーうわーと騒いで遊んで日が暮れた。(- -)…日程の余裕はないとゆーのに。

で。このシンセ、機種は何だったのか。… これが、不思議な事に今資料を調べても全く分からないのだ。当時一般に発売されていた製品など数える程なのに。年代からするとローランドVP330かと思ったけど、デザインが記憶と違う。海外のWavecomputer 340とかは波形の出る窓がない。カシオのVL-Tone VL-1でもない。こんなシンプルなボタン数じゃなかった。…あるぇ? 記憶では確かに「ホワイトノイズ」と「ピンクノイズ」を出すスライドがあった。ノイズの種類なんてこの時初めて知ったのだから間違いない。波形の出る小さな画面も。…専門家のプライベート機種だったのか? 誰か、そんな謎のシンセの事を知ってる人はいませんか。

…結論。結局「テーマ曲の自作」は幻に終わった。(^^)映画のラストに流す曲は、あるスタッフの強い勧めでスーパートランプというグループの「Breakfast In America」(アメリカで朝食を)に決まった。…結構画面に合ってて良かったから悔いはないが… 今でもこの曲を聞くと、当時の苦闘と挫折、シンセで弾こうと頭の中で作っていた自作曲の記憶が蘇る。ほろ苦いというより激苦の思い出である。(- -)

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2011年4月21日 (木)

ミシンの船に乗れた頃。

子供は何故か暗くて狭い所が好きだ。「母の胎内」をまだ覚えているせいかも知れない。そんなもんすっかり忘れたこの年(^^)だと、何がそんなに楽しかったのかもう良く分からないのだが…学校に上がる前か、上がって間もない頃は、ともかく「謎の隙間」があると潜り込んでいたような記憶がある。でも、世間で子供たちがよく入るらしい「押入れ」はあまり好きでなかった。私がよく入っていたのは「ミシンの中」だったのだ。

ミシン。…今はこの機械自体あまり使われなくなったが、当時の母親は衣料代を節約するため、家族の服なんかはよく手作りした。特に子供なんてすぐ成長して服が着られなくなるし、サイズが小さくて作るのも楽だから、子供用の服や小物を母親が縫うのは普通だった。まして私の母親は裁縫や編物が得意で、一時はそれでそこそこ稼いでいた(^^)くらいだから、ミシンはうちの必需品の一つだった。…でもそれは「機械」ではなく「家具」だったのだ。何故なら木製のキャビネットになっていて、両開きの戸を開けると中に椅子が収納されている「折り畳みミシン」だったから。

ミシンを開き、椅子をどけると足踏み板がある。上部にはコポッと内部に折り込まれたミシン本体。使う時はその本体をヨイショと起こし、上部に立てて支え板で止める。これで普通のミシンの状態に。…一方、キャビネット内部の側面にはでかいはずみ車が付いている。これに皮製の細いベルトをはめ、ミシンのホイールと連結させると、踏み板を踏んだ力が回転力となってミシンに伝わり、針がカタカタ動いて縫い物が始まる…という仕組みだ。上部から天板を引き出して道具を置くスペースも作れる。足踏みミシン自体はよくあったと思うが、こういう家具調のオシャレなものは少なかったんじゃなかろうか。…だから、後年さすがに疲れた母親があまり裁縫をしなくなっても、あちこち引っ越してからも、「ミシン家具」は長い間大事にされ、ずっとうちにあった。私にとっては「いつもいる家族」のような感覚だった。そして、戸を開くといつも薄暗く、謎めいた(子供目には(^^))踏み板やはずみ車のある内部は船の機関室のように見えた。

親のいない時を見計らい、椅子をどけてキャビネットに入る。さすがに立てないので、前を向いて背を屈め、踏み板の上に座る。乗っかると踏み板はユラユラ揺れ動く。姿勢が安定しないので、横のはずみ車の端を掴むと、それもユルユルと回転する。…少しも停止しない、何とも不安定な不思議さ。私にとってその遊びは、「嵐の海、船に密航して機関室に隠れているごっこ」だったのだ。戸を閉めると真っ暗になってさらに臨場感が増す。(^^)…現実には船に乗る機会などめったに無かったのに、この遊びのせいか、私はなんとなく「船に乗って見知らぬ世界を漂流する」ロマンを持っていた。冒険物や漂流譚が大好きになった。

しかし。少し成長すると当然ミシンの中には入れなくなる。(^^)他に「お船に乗るごっこ」ができ、一人で謎の無人島の夢をむさぼれる道具はない。多少欲求不満が溜まっていた。…そんな時に発見したのが「骨の折れた傘」だ。広がる部分の骨(親骨というらしい)がペキッと過度に曲がって格好悪くなったやつ。どーせ壊れてるんだから遊んじゃってもいいだろう。(^^)…これを開いて逆さにし、その上に乗っかった。天辺の突起が邪魔するので、床に置くと傾く。やや成長したと言っても子供の体重だから、動くとぐるんぐるん転がる。どぱーん!ざぱーん!…うわぁ大波だー!何とかしてあの島にたどり着くんだー!…とかやってると、残った骨が更に折れた。(- -;)親に見付かる前に片付けた。やっぱり、ヒンヤリした鉄製のあの踏み板の船っぽさには及ばないなー、とか思いながら。ミシンが客船なら傘はイカダという所か。

もう少し大きくなり、廃材置き場の隙間なんかに秘密基地を作った頃も、あの「ミシンの船」のようなドキドキ感は得られなかった。更に大きくなり大人になり、明るくて広い場所を動き回れるようになったって、遠い世界への冒険になど出られなかった。…子供の頃に見る「暗くて狭い場所」の夢は多分、体内回帰みたいな後ろ向きな意味ではなく、これから未知の世界へ出発する、という「夢の待機場所」だったんじゃないだろうかとふと思う。

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2011年4月 6日 (水)

ホーホケキョとPC。

私が普段使っているパソコンは、ラップトップのXPだ。ラップトップだけで3台目だが、それ以前はずっとデスクトップの98を愛用していた。…というか、今でも愛用している。(^^)それがないと困るのである。何故なら昔、趣味で作曲するため、MIDI音源や作曲ソフトやスピーカー、外部録音用のMDプレーヤー等々を…全部この98対応で揃えてしまったからだ。今さらXP用に全部買い換えると高くつく。…そんな訳で、ウィルス対策ソフトに相手にされなくなっても、各種ダウンロードが使えなくなっても、作曲の時だけは今も98を使い続けている。

その98。実は当時、知り合いに手組みしてもらった「自作PC」である。その頃は自作が流行ってたんだよね。おかげで安くついたのはいいが…でかい図体でCドライブの容量が640kb(^^)しかなく、そこに各種ソフトやデバイスを放り込んだので、システム領域がぱんぱん。ずっとはち切れる寸前だ。時代が下り、主な作業はほとんどXPでするようになってからはメールソフトを削除し、多過ぎたメディアプレイヤーを抜き…色々やったんだがまだ多い。(- -)だからよく立ち上げの時トラブる。98は外付けのデバイスと相性が悪いとよく言われたが、それもあってか、起動で何もかもいっぺんに読み込もうとして失敗したり、フリーズしたりするのだ。大抵は再起動で直るが。…それだけでなく、まだまだパソコン素人(今でも大差ない(^^))の頃は、基本的な事を知らずに無茶をして何度も致命傷になりかけた。自分であーでもないこーでもないと調べ、色んな手を試してみるものの…なんせ手組みなのでマニュアルもない(^^)し、用語も難し過ぎて覚え切れない。時には更に悪化させてしまう。でも始めの頃はこの98の「製作者」が東京にいたので、ほんとの非常事態には泣きついて直してもらう事ができた。…しかし、やがて製作者ははるか遠方の故郷に帰ってしまった。もう電話相談くらいしか助力は仰げない。私は「父なし子」の98と取り残されてしまったのだ。(- -)

これでも、うちわのよーな5インチフロッピーディスクの時代からずっとパソコンやってたんだが…(- -)長い事自力で稼げなかった上、電脳と無縁な田舎住まいで、自分で備品を買って試したり勉強する事ができなかったのだ。当時はソフトももらい物が主。知り合いには「萌え萌えになる前」からの秋葉原の常連で、パソコンには詳しい人間が多かった。だから私のやる事は大抵ハナで笑われ、バカにされた。でも98の製作者がいなくなった以上、何かトラブルがあったらそいつらに相談するしかない。…そう思ってずーっと耐えていた。(- -)なるべく全部自分で解決できるよう、必死で勉強しながら。

それでも…(- -;)どーしても98がまともに動かなくなり、その類の知り合いに様子を見に来て頂かねばならない時があった。98は起動するのにも長い時間が掛かり、メンテの間ヒマだからか、2人でやってきた。はるか都会からこんな田舎にわざわざ来てくれたのだから、丁重にお迎えするしかない。(- -)…2階。彼らが98を前に、あーでもない、こーでもないと話している後ろに私は座っていた。パソコンの向こうは窓。春先である。うららかな空から、ウグイスの「ホー…ホケキョ」の声が聞こえる。私が「あー癒されるなあ」とか思ってたら…彼らがこんな事を言い出したのだ。

「あれ…録音だろ?」「そうだろうな」「鳥の声のするオモチャがあったよな。そんなもんどこで鳴らしてるんだ」

…はい?? オモチャって…そんな訳ないじゃん。私はそんなの持ってないし、他家の屋内のオモチャの音が聞こえるほど隣接してはいない。第一、田舎だからふつーにウグイスくらいいるんで。しかし…本物だよ、といくら私が説明しても、私の発言を軽んじてるからか、それとも普段都会にいてPCばかりいじっているせいか、彼らは決して信じようとしないのだ。「あんな声は出来すぎてる」「やっぱり作り物だろう」いや、だからね…(- -;)ここらはウグイスもコジュケイもヒバリも鳴くんで。シラサギもバサバサ飛ぶし、たまにキジが田んぼや農道を横断するし、朝方カニは上がって来るし、タヌキは車に轢かれるし、時にはウサギやイタチも…

こうして彼らはPCを調整し、あくまで「ウグイスの声は作り物」と信じたまま、千葉のど田舎の我が家を去って行ったのだった。直してくれたのに「あんたばか?」とも言えず…(- -)とうとう私はウグイスの濡れ衣を晴らしてやる事が出来なかった。…あれから何年経っただろうか。風雪と紆余曲折を耐え抜いた98は今も健在だ。今年の春も「ホーホケキョ」といい声でウグイスが鳴く。パソコンのデータより大切なものがある事を、今でも彼らに教えてあげたい。

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