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2006年11月28日 (火)

コレはアレと同じ。

(- -)…また子供虐待のニュースが増えてきた。(- -)

何か書かないと落ち込むので書いてみる。これはいわゆる「サルの子殺し」現象と同じかと思う。子供がいて独り身になった女に新しい男ができる。子供を加えて同居を始める。新しく幸せな家庭を築こう、なんて立派な考えを持って臨むのでは全くなく、男女が単に行きずりの欲望を満たすために。…で、男には子供が邪魔になる。前の男との間の子供だから可愛くないのだろう。で、虐待し始める。女も女で、子供を守るより新しい男とのすけべー関係を守りたいらしく、見てみぬふりをしたり、自分も同調して虐待を始める。まさに、チンパンジーやハヌマンラングールに見られる「子殺し」現象と酷似。人間性がなくなって、目先の本能と欲望だけになってるんでしょーね。そういう人はもう人間を名乗る資格ないですね。

サルの場合、群れ社会を築く種がこれをやる。ボスはメスに子供を生ませる。ところが新しい若いボスに座を追われる。メスは子育てをしている間は発情しない事が多いので、新しいボスは自分の血統を残すため、前のボスとの間の子供を殺す。メスの方から、この新しいボスに○○を差し出す行為は「サルの売春」と呼ばれる。ゾッとするような話である。昔この話を知ってから猿が嫌いになった。でもまあ、これと今人間社会で起きている現象には何の違いもない。…「家族愛」の映画。「♪なにげない日常だけど君が大好きだよ~♪」みたいな甘い歌。が、蔓延する中で、現実に起きる出来事はコレかと言いたくなる。最近人間は、「人間教育」って受けてないんじゃないかな。人間教育というのは、人間性を高めるための教育であって、知識や情報を頭に流し込む事じゃないんだけど。多分受けてないんだろうな。セ○クスさえ出来れば大人、な訳でもないんだけど、大人は「大人だからもうキョーイクなんて受けなくていい」と思ってるんだろうな。脳は鍛えても、倫理観は鍛えないんだろうな。ここは本当に「人間社会」なのか?

ドーブツだってやってるんだからしーょがない、とか言う人間がいたら(いないと思いたい)動物と同じく野生で生きろ、と言いたい。コンビニで物買うな。服着るな。ブランド持つな。パチスロするな。餌は拾い食いしろ。病気になったらそのまま逝け。人間は社会を作らないと、野性では生き残る能力がないから社会を作るのだ。それなのに、生活の糧である社会を平気でぶっ壊すのは何故なんだろう。私には分からん。

永井豪先生の、大昔の名作「ススムちゃん大ショック」を、どこかで探し出して読んで下さい。あの頃描かれた恐怖の未来に、今我々は突入している。まともに生きられる世界は、もはや自力で必死に作らなければ守れないだろう。

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2006年11月26日 (日)

着メロなんてー!

昨日、所用で車に乗せられて移動中。ラジオから「コンバットのテーマ」が流れて来たので、「あ、これ着メロにしたかったんだ」という事を思い出した。実はケータイ変えてから、プリインストールのつまんねい曲しか使ってなかったもんで。私には「着メロのダウンロード」というのが出来ないのである。(^^)なぜなら①有料だから②無料のに欲しい曲がないから③ケータイの小さな画面でインターネットやるのが苦痛だから… そう。私はパソコンはへーきなのに、ケータイのネットアクセスがすげー嫌いだ。何故か繋げると気持ち悪くなるのだ。変な電磁波でも出てるのでは?(^^)ともあれ、一度ぐらいは真面目に探してみようと思い、車の中でケータイからアクセスしたら… てきめんに胃に来た。ゲロゲロ状態になりかけた。途中でハイレモンを買って食べ、どうにかもたせた。なぬがポータビリチーだ数万曲ダウンロードだ。電話出来りゃいーやん!電話なんやから!(まっちゃんが言ってましたね)ないと困るから持ってるけど、このご時世にほんとはケータイ大嫌いなの私。あの小さなボタンでメール打つのも面倒だし。大体、ケータイの着メロは昔は全部自作してたんだよ。

何故。今時のケータイ、着メロ作る機能なくしたのかな。(T^T)とにかくダウンロードしよう!カネ払おう!会員登録しよう!…みたいな。XPもそうだけど、ユーザーの勝手な改造とか自主性とか、そういう機械の「使いこなし」機能がどんどんなくなってる気がするね。「企業が正規に認定したものだけ、おまいらカネ払って買やいーんだよ」という態度に思え、すげー気に食わねいぞ。まあ、大抵の人はせこい音質の着メロ作るより、いい曲ダウンロードした方が余程いいし楽、とお考えなんでしょーけどさ。私はネットで探すより、自分で音符書く方が楽なんだ。そーいう人間もいるのだ。でも、変わった人間には世の中は冷たいのだ。(T^T)(T^T)メロディ入力が出来た時は色々やったんだよ。「笑点」のテーマもフルコーラス作ったのよー。(自分で凄いと思った)MIDIですら、「滅びるんじゃないか」という声もあるようで、MIDIと作曲ソフトだけを頼りに作曲してる私にとってはゾッとする話。最近はデータ、というか「何か作品を作る」という環境や作者の方を追い詰め、「すでに存在するデータを収集する」(もしくはリバイバルする、改ざんする)「それを金取って配信する」という事しか誰も考えてない気がする。これは明らかに文化の滅びへの道である。苦労して作る、という事が評価されず、マスコミや企業スポンサーに乗っかって、知名度を上げた物だけが評価される。いかがなものか。まーそれは愚痴としても。

ケータイの作曲機能を返してくれよう!(T^T)私の心からの叫び。(ソフトバンクですけどね…なぜかこれ、バーコード読み取り機能がないぞ。なぜ。もっかい分厚いマニュアル読まねばならんのか?(^^)今時の文明にもうついていけないわ私…)

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2006年11月13日 (月)

いーかげんにせんかい。

なんか。凄まじく自殺が流行ってまして。朝っぱらから3つ4つ、自殺関連や殺人のニュースばかり聞かされてると、さすがにガックリきて、今日は振り絞っても中々元気が出ませんでしたね。私もかつては、ネクラ(死語…)の帝王(^^)と呼ばれた人だったが、こんな真っ暗な時代が来るとはさすがに思ってなかった。でも、ガックリばかりはしてられないんである。だから無理矢理元気出して言ってみる。―くら。ちょっと流行ってるからって簡単に乗るな!はっきり言ってこんなん流行だ。日本人は、普段何の実行力も無い癖に、「みんながやっている」となると、途端に安心してマネし始める。いじめもそう。自殺もそう。テレビで放映しなかったら、ネットに暗い書き込みがなかったら、おまいらそう簡単に死ねるのか。たかがワイドショーで取り上げられる事が命を懸けるべき夢なのか。

今でこそ平和国家なんて言ってるが、かつて日本は大戦前、全体がイケイケ気分だったため、「みんながそう言ってるから」戦争バンザイとか本気で言ってたのだ。それがボロ負けしたら途端に「我々は犠牲者」とか言い出したのだ。みんなが言っていようがやっていようが、間違ってる事は間違ってる。それを乗ってる最中は誰も言わない。で、後から「実はほんとは」とか言い出す。そんなもん誉められるか。後で言うなら止められる時に言え。それと同じ。いつも同じ。バブルに乗っかってた時も。でも、死んじゃったら後で「ほんとは生きたかった」なんて言っても遅いんだからな。

私は。色々苦しい事を抱えて一人で上京した。漫画家志望だったが、なれるアテも無かった。実は半分くらいは死を(売れなくて餓死(^^))覚悟していた。その時に考えた事は… 「ジサツなんて、いかにも自分に浸ったナルシストみたいで格好悪い。だから頑張ろう。頑張って頑張って、頑張り過ぎで過労死してやろう。これなら誰も自殺とは思うまい」。で…死んだのかと言えば、今も元気に生きている。人間、本気で頑張ってると中々死なないものらしい。どーせ死ぬと思ってるなら、いじめなんて死ぬのに比べたら大した事ないんだから、平気で反論くらい出来るんじゃないのか。別に死にたくないのに、犯罪被害で亡くなる人もいる。「人間なんて、どうせ簡単に命捨てる」なんて思ってたら、犯罪犯した奴だって反省しないだろう。自分を追い込んだ人間を最大限に後悔させる方法は、自分が死ぬ事ではない。人間そこまで人の痛みは分かりはしない。何か伝えようと努力しない限りは。

言ってる私だって、そんな強くはないが、「ダラダラ同じ事が続く」という状況だけはとっても嫌である。だから衝動的にジャズの譜面を書き始めた(^^)。あんまり才能ないから、ちゃんとしたジャズにはなってないと思うけどね。一つも同じフレーズはないのだ。そこがいいのだ。現実だって本当はそんなもん。流れる河の水は同じに見えて、一瞬も同じ時はない。今の人間が違う可能性を探し出せないのは…多分、真面目に自分の周りを見ていないだけなのだろうと思う。

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2006年11月 4日 (土)

観音開きのステレオ

ポール・モーリアが亡くなった。という記事が挙がっていた。…別に凄く知っている訳じゃないが、この名前は子供の時の原体験に繋がっているので、ふつふつと記憶が沸いた。そういう私は今日も、仕事にもお金にもならないオリジナル曲を、せっせとパソコンで作っている。なんで作曲なんかやり始めたのかなあ… ともあれ、私の音楽の原体験が、母親の大事にしていた何枚かのLP(もちろんレコード世代だ)だったのは確か。

子供用の童謡のドーナツ版なんかも買ってくれたけど、別に好きではなかった。(すいません)聴いていたのはトリオ・ラ・パンチョス。サム・テイラー。コンチネンタルタンゴ。そしてこの重い布陣の中に、1枚だけ混じっていたイージーリスニングが、ポールモーリア・グランドオーケストラのヒット曲集だった。オリーブの首飾り。愛の賛歌。これに比べると…日本の歌謡曲はなんて、暗くて重くてださいのだろう。とか本気で思っていた。(ほんとにすいません)自分で歌うとやっぱり演歌みたいになる癖に、演歌的な「いつも女は不幸」みたいな世界がとってもヤだった。それは多分本当に、すげー不幸の一歩手前くらいの環境だったから。あと一押し!で落ちそうなのに、なんでこれ以上不幸な歌を聴いて、背中をドンと押されねばならん。…だからおそらく、私がガキの癖に曲を作りたいと思った原因はこの辺だろうと思う。自分の中にあるニッポン的な重いリズムを、異世界の明るい音律で消してしまいたかったのだ。でもポール・モーリアはともかく、サム・テイラーが軽い訳じゃないのに聴いてたのは何故だ。(^^;)どうにも矛盾してるね。

母親は、若い頃からずーっと1台のステレオを大事にしていた。今時のステレオを思い浮かべてはいけない。木製である。4本の木の足が付いている。スピーカー部分には、ゴージャス(そう)な模様の付いた布が貼ってある。その上部全面になんと、仏壇のような観音開きの蓋がある。…左右に開くと右側が、当時大きな体積を必要としたラジオ。そして左側の空間がレコードプレイヤーだ。箱の中だから暗い。よって、電源を入れると小型のぼやけた照明が灯るようになっている。物心付いた時から見ているので、ステレオとはこういう物だろうと思っていた。しかし長じて後に、人に「観音開きのステレオ」の話をしたら、誰も信じてくれなかった。珍しい物だったのかな。買った当時は高かったんだろう。母親はどんなにビンボーしても、意地のようにこのステレオで洋楽を聴いていた。だから私にも染み込んだ。母親がさすがに飽きた頃には、私がこれで勝手にポール・モーリアを聴いていた…というわけ。子供は親の背を見て育つと言うが本当だ。おかげで子供向きの音楽に反応しない、4拍子よりも3拍子で乗る子供ができてしまった。

中学で初めて買った洋楽はカーペンターズ。高校以降はヒネて変な曲を聴いていたが、自分で曲を作ってみるとやはり、この時代の影響が大きかったのが分かる。透明感のある音が好きである。重くて暗めの曲が出来てしまう事もあるが、半音のネジマガリ方にジャズの影響がある。(さすがにジャズは作れないが…)日本人にはどうしても、「天国のような」明るくて軽くて美しくて透明、な音は作り切れないんじゃないだろうか。軽くて美しく、しかも広がりがあるというのは大変な事なのよ。自分で譜面書いてみると分かるが、音に深みを持たせようと楽器を多く重ねていくと、どうしても音が濁ってくるんだ。軽く作ったから軽いんではないという話。聴き手に負担を掛けない曲を作るため、ポールモーリアさんは影でどんな苦労をしたんだろうな。

ともあれ、合掌。作曲家にも何もなれそうもないけど、私も頑張ります。

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