もいちどゲド戦記
NHKで、宮崎駿監督の密着取材を放映してたのを見た。それ以前のニュースでもチラッとイラスト1枚だけ見せていたが、次の作品は「金魚姫」だそうですね。そしてテーマが「海」… でも…金魚って淡水性だから海にいたらおかしいのでは… 泳ぎが下手で、何度も塩辛い思いをした私は、(海の水ってほんとーーに辛い(T^T))どーしても頭の中で「海」と「金魚」が結び付かないのだった。でも、物語の中で「何故金魚が海にいるのか」きっと説明してくれるに違いない。…と思う。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070320-00000970-reu-ent
私と同居人は、もらったタダ券で(^^)しっかり劇場まで「ゲド戦記」を見に行ったクチである。しかし、とある漫画関係者のなかで一言「ゲド」と言ったら、「あのク○映画を」「ムダ足」と頭から馬鹿にされてしまった。ネットの総意としては「叩くべき」とされてるようだ。でも、私達は「結構楽しんだ」のである。なぜ楽しめたかは以前のブログに書いたが、もう一度書くと「あのジブリが、今時の暗い問題を真正面から描こうとしている」のが新鮮だったのだ。しかし世間が「ジブリ」に期待してるものは、やっぱり違ったのだな。「世界三大ファンタジー」というのに期待した人、うっかり子供を連れて行った人、毎回のお約束「コナン走り」(千尋でさえやってた…)が見られなくて失望した人、「親殺し」の主人公がどうしても許せない人、朔太郎の盗作だと怒る人… まあ、普通に考えたらそうかもな。でも、エヴァとか、その他深夜アニメなんかがどんなに暗かろうと反社会的だろうと、暗いからという理由で叩かれたりはしないだろうに。もちろん、物語的にも「そーとー説明不足」「世界観に比べてストーリーの密度が低い」「未熟」なんて、難癖付けようと思えばいくらでも付けられる。すごく完成度が高いとは思わない。でも、「完成度が高くて面白くない」作品、というのもあるのよ。「完成度が高くて面白い筈なのに、ワンパターンだから感動呼ばない作品」だってある。ともあれ、本来なら感情移入できないような人物の「感情」がちゃんと伝わってきたのは凄いことだと私は思うんだが。…映画を見る前に「大体こんな作品だろう」と考える、その予測を外し、何か別の物を見せてくれたら、曲芸がなくてもある意味それだけで価値だ。でもまあ、後は好き嫌いだから。
「宮崎アニメ」は、「ラピュタ」を境にして別の物になった。と私は思っている。それは作り手だけの問題ではない。この頃を境に世間の「善vs悪」という不滅のパターンが壊れ始めたのではないかと。どう見ても、ラピュタまでの主人公たちは「善」で「正義」だった。主人公も悪党もある程度パターン化されている。私はどうしても「コナン」(探偵じゃなくて!)から考え始めてしまうのだが、典型的な悪役「レプカ」→「カリオストロ伯爵」→「ムスカ」(同じ人に見える…)の流れが、ここで途切れたように思うのだ。宮崎アニメの世界ではこの「権力をカサに着た冷酷な男」というのが、最大の悪として描かれていた。でも、ラピュタの最後で失明し、「目が見えない!」と叫び、さ迷い、己の城に潰されていくムスカを「可哀そう…」と思ってしまったのは私だけ?当時は思わなかったが、カリオストロ伯爵だって本気でクラリスに惚れてたのかも知れない。彼ら「悪キャラ」は単に友達が出来ず、権力しか信じられなくなった、気の毒で孤独な男だったのかも知れない。そう思ってしまうようになったのは、こういう悪役とは比較にならないくらい「非人間的な犯罪」が社会に起き始めたせいもある。しかも年少者、信頼されている人間、あるいは「ごく普通の人」が凶悪犯罪を犯す。「世界支配を企む権力者」だけが犯す訳ではないのである。…じゃあ、物語を構成する上で必要な「悪」は一体誰だ?
だから、「トトロ」からの流れは「悪役」が本当にいない。「困った事件」は起きるが、(メイの迷子とか、タタリ神とか)憎むべき者がいない。世界的にジブリの評価が凄く高くなったのもそのあたりから、のような。簡単に「悪役」を作らない所が、見る者に安心を与える。でも…「現実」の社会は更に悪くなっていったのだ。いくら心温まる物語を作っても、不幸は確実に起き続けるのだ。一体誰のせい? …で、ついに持って行き場のない悪の元凶を「自分自身」に求めてしまったのがゲド戦記、ではないかと。それは「自分の中の悪」なんて覗きたくない(もしくは無いと考える)人には、生理的に受け入れ難いかも知れない。自分の暗黒面ばっかり見てたらやってられないのも確か。でも、「簡単に決められない」とはいえ、この世には「悪」と「正義」の峻別は、やっぱりあるのである。私はそう思う。でなければ普通に暮らせる秩序さえなくなってしまう。ただ間違ってはいけないと思うのは、「正義」は「悪」を裁くために存在するのではない、という事だ。正義はただ黙々と「正義で有り続ける」ためにだけ存在する。カッコ良くなくても、メリットがなくても。そして裁く者は「ルール」それ自体である。執行するのは代理人に過ぎない。(月光仮面だって、「正義の味方」とは言っても「私は正義」とは言ってない)ゲド戦記のテルーが「命を大切にしない奴なんて」と言っておきながらクモを丸焼きにする、というのが矛盾だ、と笑うムキもあるようだが、あれは人間の法でなく(正体は人間でなく竜だからね)「自然の摂理」という法を代行したものと受け止めて、私は違和感は無かった。むしろ、ここまで持って行かなければ「この悪党め、成敗してやる!」とすら言えない世の中なのかと、むしろ現実の方に重さを感じるのであった。
普通に、やや幸せに暮らしている人を楽しませるのは割と簡単だ。だが不幸や、重い悩みや心の傷を持った人たちは、どうやったら心底楽しませ、幸せな気持ちにさせられるのだろう? 多くの期待を寄せられ過ぎて、ジブリはそんな重い課題を背負ってしまったのかも知れない、と思った。
(追伸・宮崎アニメに残酷シーンは絶対ない、と思われてる気がするが、カリオストロ伯爵の最後。…あれ、描いてないだけで、後で時計台に接近したら「とっても見たくない状態」だったと思うんだけどなあ…少なくとも私は、見た限りのどんなアニメの悪役の最後より恐かったぞ。)
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