君の瞳は星のようだ
タイトルと、これから書く話はギャップがありますので、ロマンチックを期待しないで下さい。(^^)
先日、書きたい事書いてスッキリしたもんで、ついでに吐き出してしまいたい記憶がむくむくと沸いてしまった。「君の瞳は星のようだ」というのは、私の母が昔父からもらったという、ラブレターの文面である。…という話である。子供の頃散々聞かされた。母親の話は何かというとコレか、さもなくば「特攻に行ったお兄ちゃんとの淡い初恋の物語」になるのであった。(ただし母親の離婚後)母親の話によると、父は自衛隊で楽器をやっていて、その当時田舎のモダンガール(つーか放蕩娘)でダンスホールなどに行きまくっていた母と知り合い、こんなラブレターまで出し、あげく母は婚約者を棒に振って駆け落ちしたそうなのである。まあ本人談なので、信憑性は定かではないが、一見ドラマチックである。しかし… 幼い頃のおぼろげな記憶にある父親は、どー見てもラブストーリーの主役には見えなかった。丸顔で、既に毛が薄かった。既に自衛隊員でもなくサラリーマンをやっていた。しかも…その家庭生活の末路はハタンであった。情熱的な恋なんて長続きしないものね。母親は父の、写真という写真を全て焼いてしまった。本当である。一緒に撮ったものか集合写真だと、母は自分の部分だけ器用に切り抜いて、残りを棄てていた。よって、今の私に父の顔の記憶は全くない。街でバッタリ会ったって分からなかっただろう。女の恨みは恐いなあ… それでも母が離婚後この話を私に何度もしたのは、「自分は愛されていた」「お前は自信を持て」と励ましてくれたものと受け止めている。でもまあ、長いのでその話はここらで置くとして。
「ジエータイ」が何をするものなのか、子供の私は知る由もなかったが、高校ぐらいになった頃、「自衛隊は違憲か合憲か」というテーマで、ちょっとモノ知ってる風の学生は議論をやっていた。…議論なんてものではなかった。当時の風潮だと、ほんの少しでも「自衛隊に賛成」な意見を言うと、鬼のように「戦争賛成論者」と決め付けられ、攻撃された。当時隆盛だった、社○党系の発想である。(だから私は、今でも社○党系が死ぬ程嫌いです(^^))私は「元自衛隊」の父親なんて既に記憶にすら無かったのに、自分も攻撃のターゲットになっている気がしてひどく傷付いた。違憲なら犯罪なのか?国や国民を守るために命を掛けて、しかも犯罪者扱いされなきゃならないのか?…だったら、こんな国も国民も守らなきゃいいのに。戦争状態になって攻め込まれたら、「私たちは平和主義です~」とニコニコして、みんなそのまま○されてりゃいい。ガンジーさんならやるだろうし。…などとすさんでいた。ほんと、あの時代の現実と理念のギャップは凄まじかった。私は精神の暗黒時代だったと思っている。ほんのちょっとでも結論的な事を言えば、必ず「ウヨク」か「サヨク」かどっちかだと決め付けるし。(どっかの裏ネットではまだやってるのだろう。明らかにこの世代だな)そして、この世代の若者は「三無主義」と呼ばれた。無気力、無関心、無感動… 冗談じゃねーよ。何か気力出してモノ考えようとしたら、問答無用で全て叩き潰してきたのは一体誰なんだ。そして憲法9条を説く教師は、法律違反なのに(つまり公務員なのに)年中ストをやって生徒の事なんか眼中になかったのであった。今の日本人の倫理観がどんどん壊れていってるのは、この時代の「思想を持つ事自体が危険思想」みたいな、ねじ曲がった価値観の結果である。と私は思う。そして時代は流れ…
世間の風潮も随分変わったなと思う。湾岸戦争、北朝鮮の各問題、そしてイラク。昔は半島やアラブ諸国の事など、話題にするだけでも「こいつ危ないんじゃないか」と疑いの目で見られる有様だったのに、(そーゆーこと考えていいのはゴ○ゴ13だけでした(^^))報道でバンバン流れ始めてからというもの、知ってるのが常識にまでなった。この国は日本人の意志ではなく、大国の意志で運営されていたのだという事も改めて思い知らされた。そしてあの時代を考えれば…確かにその方が国家にとって「安全」な運営だったという事も。今や自衛隊を合憲にするため、憲法まで改正しようかという勢いである。理屈で平和をコネても、現実ミサイルやら犯罪が国を狙っていると分かると、国民の総意なんて簡単に変わるものだな。私は通信大学の試験論文で、一度憲法改正テーマにした。私の意見は「持てる、もしくは行使できる武力の上限を定めて合憲にする」というものだった。なし崩しに認めては危険だが、現実的には放棄なんてできないだろうから。そして、こういう事を考え、ささやかに意見表明までできる時代になった事をある意味感謝している。この世の最大の悪の一つは「封殺」である。存在そのものを認めようとしないこと。この国は随分長い間それをやってきた。今でも多々にしてある。そして、ある一つの「立場」だけで出来た世界の人間は、自分達が何を封じ込めているのか、大抵は自覚がないのである。いじめを「している」立場の人間には痛みがないのと同様に。
私は「生みの父親」をいまだに「父」とは感じられないでいる。そいつには別に家族があり、私にとっては最後まで、どこか知らない所で生きて死んでいった赤の他人のままだった。それでも半分遺伝子が入ってるばかりに、こういう事まで考える羽目になるのかと思うと…少々複雑である。
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コメント
何か書きたいけれど、うまく書けないので、とりあえず「たしかに読みました」のしるしだけ残しておきます。日曜日の記事2本、いずれも力作でした。時々は妙にからんでくる人も出てくるけど、ネットの上では手は届きません。思うことは、自由に書いて行きましょう。
投稿: 志村建世 | 2007年3月12日 (月) 22時16分
志村先生・
読んで下さって感謝します。<(_ _)>
このブログでは、自分の中の「底の泥」の部分を吐き出しちゃってるな、と思います。(その分本音でもあります)一人で考えているよりはスッキリしますが、読む方はしんどいだろうと思うので、やや申し訳ない気もします。有難うございました。
納豆事件を取り上げた時、すごく安直にアクセスが増えたので、逆にカウンターは全く気にならなくなりました。(^^)ここは本宅の生玉荘と違い、それでも見たいと思ってくれる方だけ読んで下さればいいと思っています。
投稿: いくたまき | 2007年3月12日 (月) 23時04分
最初に断っておきますが、戦争は決してよいことではないと思っています。ましてや、仕掛けることについては、もってのほかであります。
ただ、現在の日本は、安直に「平和」を語りすぎるような気がします。いくたさんのおっしゃるとおり、「平和」であるためには、ある程度の軍事力も必要であると思います。ただ、過去の過ちを犯さないために、しっかりとしたシビリアンコントロールは不可欠であると思います。
それともう1点。もし、日本が臨戦状態になったときに、私たちの命を守ってくれるのは、間違いなく「自衛官」の皆さんなわけで、現状のように、やみくもな「無用論」を唱えている方々は、いざ、その状態になったときに、「自衛隊」に頼らずに、自ら武器を持って戦う意思があってそんなことを言っているのかはなはだ疑問であります。
もうひとつ。こと、公務員に関しては、まったくおっしゃるとおり。異論はあるとは思いますが、自ら憲法違反を犯していながら、一方では自分の主義主張を押し付けるような立ち振る舞いは現実にもあるわけで(すべての方がそうであるとは言いません。中には、現状を的確に捉え、何を伝えるべきか、日ごろから考えている方もいます。)その方たちは、自分がしている行為自体が、昔、日本が軍事政権であったときと、方向性が違うとはいえ、同じことをしていることに気づいているのでしょうか。
現在、公務員に求められている重要なニーズのひとつが「物事を多方向から見る」目だと思っている私には、到底考えられないことであります。
志村先生のおっしゃるとおり、思うことは、自由に表現してかまわないと思います。少なくとも、最近ネット上で横行する、匿名であることをいいことにエスカレートしている中傷の類よりははるかにレベルの高いものであると思います。
投稿: GAKU | 2007年3月14日 (水) 00時34分
GAKU様・
しっかりした感想、ありがとうございました。
戦争の是非とかいう前に、「我が国が武力を持つと危ない!」と言い立てるというのは…「ウチは武器持っちゃうとすぐ戦争始めてしまう、危険な国家だ!」と宣言してるも同然、だと思うのです。少なくとも海外からはそう見えるのでは? 国際的な信頼が得られない訳です。
日本の警官は滅多に発砲しませんが、だからってお巡りさんがピストルを持ってなければ、犯罪者は恐れないでしょう。腕力に自信のある奴なら逆襲するだろうし。「警官がピストル持つのは危険」とは誰も言わない。でも、じゃあ100%その警官が信頼できるのか、なんて誰にも分からない。やはり最終的には倫理観の高低の問題でしょう。ふつーに理性があれば、馬鹿な真似はしない。でも最近の日本の乱れようを見てると…「確かにこの国の国民は危ないかも」という気がしてしまうのが悲しい所です。(- -;)
あと蛇足・偏った世界は、「右」「左」に「翼」という漢字が付いてます。「翼」とは飛んでいく力、つまり牽引力です。そっちの偏った方向に「引っ張ろう」とするのが「翼」です。たまたま定規で測った時何センチか左右ににずれていたって、最終的に「道の真ん中あたりを歩こう」とする人を翼とは言わない。大半の人間は真ん中志向だと思います。無論私も。
投稿: いくたまき | 2007年3月14日 (水) 02時04分