「可哀そう」の罪
とうとう年末。薬害肝炎問題も、かなり解決に向けて動き出したようでまあ良かった。(^^)あと、主な懸案は年金問題と特殊法人の合理化と原油高とテロ特措法の始末ですかね。政府さん頑張って下さい。
この間気になったんだけど、特に記事を付けそびれたニュースがあった。↓
「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071225-00000302-yom-ent
要するに、欧米ではこの悲劇は「負け犬の死」と思われ、評判は良くないとの事。確かに私も、悲惨な結末が分かってるだけに恐くて見られなかった(^^)記憶がある。子供とイヌ出したら泣くかと思って!…とか言いながら結局ホントに泣いちゃったりするしな。最近上映の「マリ」のコマーシャル「死んじゃうのやだよ~」だけで…ちょっと危なかった(- -)私である。だからこの手のは絶対見ないの。あと、ブレイクするのが難病で死ぬ映画ばっかりというのもすごくイヤ。この国、不幸を乗り越えて戦うのがキライなのかと思ってしまう。
実際、日本人独特の「可哀そう」という感覚は海外では通用しない。例えば今まで「発展途上国」と呼ばれ、いわば「可哀そう」な立場にあった国々がちょっと発展してきたら…どこが可哀そうだー!と叫びたいくらい金稼ぐ。学力も伸びる。図々しくなる。どことは言わないが。彼らは諸所の事情で圧迫されていたに過ぎないのであって、元々凄まじい可能性やパワーを秘めているのだ。逆に言うと、今まで政治的事情や紛争で多くの国が発展を抑えられていたからこそ、日本みたいな覇気のない国が「先進国」ヅラをしていられたのではないかと思うくらいだ。たとえば、世界にはまだまだ貧困で教育を受けられない子供が数多くいる。そういう所で奨学金制度を充実させたり、海外が援助したらどうなるか。彼らは「わーいこれで思い切り勉強ができる!」と、それはそれは頑張るのだ。一気に学力も上がる。「将来は学者とか医者とか技術者になって、国を発展させたい」とか、とても立派な事を言う。日本が戦後の貧困から立ち直った時、果たして子供や周囲の大人はこんな風だっただろうか? 「わーいこれで思い切り金儲けして贅沢できる!」…が大勢だった気がするが。「勉強できて嬉しいなあ」「立派な人になってみんなに尽くしたい」…少なくとも私の時代、こんなセリフを周囲で聞いた覚えは一度もないぞ。最近は日本の子供も学力レベルもどんどん落ちているという。そりゃ、勉強が楽しくて夢を持って頑張ってる子供と、イジメに怯えながら親に言われて仕方なく勉強してる子供じゃ比較にならんわな。頭の問題ではなく、人生観の問題だ。
何が言いたいのかというと、「日本は外国を可哀そうとか言える程、余裕があるんですかー?」と言いたいのだ。現在全ての面で海外にどんどん追い抜かれているのに、国内のゴタゴタばかりで巨視的な危機感が無さ過ぎだ。国際貢献にしたって、何をする事が貢献に当たるのか、という理念が統一されてない。カネ出すだけでは馬鹿にされる事は経験済みだが、じゃあ自衛隊出せばいいのか。それともボランティア出せばいいのか。それとも国連に従う事が貢献なのか。それとも、たとえば紛争のある国なら、その対象国の援助に集中すべきなのか。でも国内で民族や宗派が割れてたら、誰の肩を持つのが貢献に当たる? …何もかもはっきりしてない。「この国大変かも」「可哀そうかも」というイメージで考えても、結局何の役にも立ちはしないだろう。日本は、相手の国の状況や、国際的なパワーバランスを勉強してから現実的に対応を考えてます? 単に「どうやったら日本が善良で正義っぽいか」というだけで、自分の事しか見えてないのと違う? しかし、そうやって自分に耽溺する割には「自分の事=国内問題」すら解決出来てないのはどいういう訳だ。
不幸な人間(もしくは国)は幸せへの道を閉ざされてるだけで、その道さえ開ければ不幸ではなくなる。だから本来、可哀そうな人間など誰もいないのだと思う。難病で亡くなるのは不幸かも知れないが、死なない人間は誰もいない。生きてるうちに本人の納得できる戦いができるかどうかが問題なのだ。薬害の恐ろしさを訴えて亡くなった方も、不幸ではあるが、意味のある仕事をこの世に残したのだから決して「可哀そう」ではない。私だったら自分が不幸な時、「可哀そうー」と言うだけで何もせず通り過ぎる人間を見たら、まず腹が立つと思う。力あるならば何かすべきだ。そういう発想があるから、ネロ少年の話も現地ではウケないのではないか。「絶対画家になってやるぜ!」と根性で生き延びるネロ少年とか… もし飢えたら、せっかくの忠犬もそこにいる事だし…(そこまでしたら天国には行けんだろうなあ(- -;))
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