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2011年2月28日 (月)

フリッパーとわんぱく中高年。

すげー小さい頃、アメリカのTVドラマ「わんぱくフリッパー」が大流行した。…ドラマはほとんど覚えてないが、とにかく「イルカが活躍する話」である。イルカかわいー。イルカかしこい。子供にも大人気だった筈だ。やがて、「わんぱくフリッパーのおもちゃ」が発売された。おフロに浮かべると泳ぐのである。潮まで吹く。それは、初めての「電動・水物おもちゃ」の一般販売だった。こ、これは子供としては欲しい!買ってー!…買ってくれなかった。(^^)高かったし、よく考えたら風呂付きの家に住んだのはもっと後だった気がする。銭湯に持ち込むのもあまり良くない。小奇麗なバスルーム、おもちゃを使って楽しく遊ぶ子供のCMは、私の境遇よりビミョーにランクが上だった。

その後、お風呂おもちゃの流れで「スイスイかっぱ河太郎」というのが発売される。胴長短足の体型に長い腕。この腕を振り回し、なんと河太郎はクロールする。(^^)でんぐり返すと背泳ぎする。(^^)陸に上げると…忘れたけどやっぱり腕で移動する。やまくんに聞くと、男の子としてはこっちの方がハイテクに見えて良かったそうだ。ただ、私目線だと…カッパですからね。フリッパーの可愛さにはとーてー及ばない。それでも、フリッパーを買ってもらえなかった代償にこれもすごく欲しかった。…買ってくれなかった。「お風呂は遊ぶ場所じゃありません」というのが親の考えだったと思う。そりゃそーだけど。銭湯で、ポンプを握ってかえるをぴょんぴょん飛ばせている子供さえうらやましかった。

でもまあ女の子なので。(^^)その後は特に水物にはこだわらずに成長したが…男の子はそこから水中モーターに走ったりしたようだ。調べたらフリッパーのおもちゃの数年前にマブチモーターが発売されている。フリッパー放映自体はその1年前だから、「これから水物がくる!」という読みがあった…のかどうかは分からない。以降はやまくんから聞いた話だが、お金のない小さな子はいきなり水中モーターは買えず、まず「ゴム動力」に手を出した。継ぎ目のない単体成型の潜水艦。ゴム動力というのは…(^^)まあ大抵の人は分かると思うが、長いゴムをねじり、それが巻き戻る力でスクリューを回すもの。同じ原理で飛行機も飛ぶ。単純だが、これ初速だけは結構速いのね。でももちろん航続距離がアレなので(^^)、少し大きくなってお小遣いが増えると本物の水中モーターを買う。…この先は、好きな人にはジョーシキだが、一般人は知らない範囲だ。

マブチモーターは非常な優れもので、単3電池1個なのにかなりのパワーを発揮する。赤と白のツートン(発売当初は青と白だったそうな)で、10センチくらいの魚雷のような形。電池を入れてひねればスクリューが回る。舵もあるので方向も付けられる。吸盤が付いていて、水に浮くものの下に貼り付ければ、ただそれだけで何でも水上を走るのだ。洗面器が走る。石鹸箱が走る。普通の船プラモも!…と言いたいが、これは水が漏れたらモーターの自重で沈むから走らない。(^^)ただ、発砲などの浮力材を詰めれば大きさによっては何とかなる。買ったやまくん大喜び。(^^)…しかし、彼より年長の子供はその頃は更にグレードの高い物を買っていた。ちゃんと専用のモーターの付いた、水上用の船プラモや自動浮沈潜水艦だ。ただ、これは組み立てる際にちゃんと稼動するよう配線したり、水密したりする必要があるので、技術的に高度になる。ともあれ、「水上・水中を走るおもちゃ」は、ある時代の男の子の夢とロマンだった。…しかし、今では子供の世界から絶滅しつつあり、フネ世代の一部中高年マニアがこの領域を支えている。なぜ?

…ったって原因は明白だろう。遊ぶ場所がないのだ。(^^;)フリッパーやカッパは泳げても、家風呂じゃ高性能な船を走らせるにはあまりにも狭い。銭湯は少なくなったし、あってもおもちゃの持ち込みは断られる。…その辺の池や川は? はっきり言って子供には危ない。大体池なんかで走らせても途中で止まったら回収できない。(^^)どよーんと濁った水の中に、苦心の潜水艦が沈んで二度と戻らぬ悲しさ。ミニ四駆のレース場のように「船おもちゃ専用のプール」でも作ってくれない限り、この世界の未来は険しいだろう。ちなみにマブチの水中モーターは1997年に一度発売中止になった。今は復刻したようだが…あまり出回ってない。金型を引き継いだ某社のモーターがよく使われるが、出力が違い過ぎるのね。(- -)マブチと競争させると、スポーツカーと軽くらいの勝負になってしまう。

まあキリがないのでここらで止めるが…「水物」自体は幻のアイテムではない。(^^)今もごく一部の人間が維持に頑張っているが、その世代がいなくなると消えて幻になる可能性は充分にある。…ところで。「わんぱくフリッパー」だが、実はやまくんは持っている。トイザらスのワゴンで300円だったそうだ。なぜー!お前は高価な幻じゃなかったのか!…まあ多分復刻版だけど。でも、その夏のワゴンにあっただけでもう見ないそうだから、フリッパーは再び幻の海の底深く~♪…消えたのかも知れない。

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2011年2月27日 (日)

毛糸のパンツの大冒険。

これは私の、子供の頃の記憶の中で一番古いものだ。(^^)…生まれは、大阪のとあるボロい「文化住宅」だった。文化住宅というのは、関西の高度経済成長期にボコボコ建てられたアパートの名称である。どこか「文化」かというと、長屋と違って「一軒ずつ別にドアとトイレが付いている」というだけ。風呂はない。ドアが違うというだけで壁は長屋並みに薄いから、お互いの生活音も筒抜けで、実に隣近所のフレンドリーな(^^;)環境。…記憶ではちょっと石段を下った、湿っぽい窪地にあった。幅30センチほどの裏庭は完全に日陰で洗濯物が乾かない。だから階段の付いた共同物干し台があり、子供たちの遊び場になっていた。(私はよく転げ落ちた)…まあ、つまり表通りからは目立たない場所だった訳だ。

もう顔も思い出せないが、隣だかその隣だかに同年代の男の子がいて、よくその子と遊んでいた。まだ幼稚園に上がる前だったと思う。幼なじみ、生まれて最初のボーイフレンドだな。(^^)でも、まだ男女の違いなんて理解してないからただの友達だ。…ある日、何がきっかけかは不明だが、私はその子と一緒に「遠い所に行ってみる」事になった。物干し台にも飽き、穴倉のような自分の家を離れて冒険してみたくなったんだろう。…文化住宅の石段を登り、てくてく歩き出す。歩く。歩く。ただ歩く。ほんの近所は知ってるが、それより遠くは見た事がない。何の変哲もない町なのに、小さい子供にはただそれだけで未知の世界への大冒険だった。

幼稚園以下の子供だからお小遣いなんて持ってない。もちろん交通手段は使えない。…だんだん疲れてくる。雨上がりだったのか、道には水溜りも出来ている。根性で隣町くらいまで来たのかな。「もう帰ろう」という話になった。…今度は逆に歩き出す。日がゆっくり傾いてくる。おかしい。こんなに遠かったっけ…歩いても歩いても知ってる場所に出ない。疲労すると、帰り道が遠く感じる事なんかその年では分からなかった。二人で手をつないで…だんだん涙ぐんで来る。足が重くなる。ついに私は水溜りでこけた。

その当時…というか小学校に上がるまで、私は母の手製の「毛糸のパンツ」を履かされていた。(^^;)すぐ寝冷えしたり、お腹を壊す子供だったらしい。だからその時も毛糸のパンツ。それで水溜りに突っ込んだんだからたまらない。パンツぐっちょり! 気丈な幼女の私も、ついに「びえーっ」と泣き出した。男の子困る。こんな気持ち悪いんじゃ歩けないよう! で、どうしたかと言うと…パンツ脱いだ。(^^;)脱いだパンツを片手にぶら下げ、さすがにもう手はつながず、更に二人は歩き続けた。つまり…人通りの多い町の中を、下半身すっぽんぽんの女の子が、男の子と一緒に泣きながらてくてく通過していく…という光景だった訳だ。日がもう赤くなってきた頃、やっと自分の文化住宅に辿り着いた。家の前では大人たちが騒ぎになっていた…ような気がするが、その辺はもう思い出せない。ただ大泣きしながらも、自分の足で冒険し、自力で帰って来た事に私はちょっと満足していた。

小さかったとはいえ。(^^;)…見せびらかしながら町を歩いたんだもんなあ。それでも無事に帰って来れたのは、まだ時代が今ほどすさんでなかったからかも知れない。大人は誰も助けてくれなかったが、悪さをしようともしなかった。子供にとっていい環境って、そういうもんじゃなかったかと今でも思う。

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2011年2月26日 (土)

霊にカケアミされた話

これは私の、おそらく生涯ただ一度の…オバケにまつわる話である。(^^)しかし、まつわっただけで見た訳ではない。

高田馬場の下宿で漫画を描いていた時代。ある友人がいて、時々部屋に遊びに来た。出身地が同じ大阪で近かった繋がりである。…ちょっとエキセントリックな人でね。(^^;)私とは趣味も性格も全く違って、美少年好き、ファッション精通、聴く音楽はハードロック。わりと入り浸ってたので、一度原稿の手伝いを頼んだ事があるが…そっちはアカンかった。ただ、私にはない「霊感」があるらしかった。自称だが。私に見える訳じゃないから、それがホントなのか気のせいかは私には分からない。

ある夜、彼女が机代わりのコタツの上にあった紙に落書きを始めた。そして「今、このへん(肩の辺りを示す)に来てやんねん」と言い出す。何が来てるのかと聞いたら…これが「霊」らしかった。(^^;)しかもタヌキ。無論私には何も分からない。ただ、落書きしてる事から考えても「こっくりさんとかで来るやつと同類かな」という気はした。…一応、子供の時にそーいうのも流行ったからね。そんなに深入りはしなかったがある程度知っている。聞く所だと、あまり高級でない(^^)霊らしい。つまり彼女でなく、今手を動かして落書きさせているのは、その「タヌキ」だという事になる。…何を書いてるのかと思って紙を見たら、文字でなく図形だった。なんか四角を描いている。

「この四角がな、このコタツや」「へ?」「だから、今いるこの部屋の絵を描いてんねん」

なるほど、部屋を上から見た図に見える。四角は家具の配置だ。次に、彼女の手はコタツの位置の外側に丸を描いた。

「これは、今あたしがいる場所」

タヌキらしき物は、人物の描写に移った様子。彼女の向かい側には私が座っている。次は私か…と思って見ていたら、その通り私の位置に丸が描かれた。しかし…その後の展開が変である。描き終わったペンは何を思ったのか、少し考えるようにその位置でピタリと止まった。そして、おもむろに私の「丸」の中にタテ、タテ、タテと線を描き始めた。漫画で言う所の「タテセン」である。

「?」…驚いて私が眺めていると、タテセンを描き終ったペンは今度はその上からヨコ、ヨコ、ヨコ…と横線を引き始めた。丸の中は格子状になった。そして次にナナメ、ナナメ、ナナメ…3回重ねた。これは、漫画でハーフトーンを手描きする際によく使う「3カケ」ではないか。ええっ!?と更に驚いて見ていたら、それは4カケになり、5カケになり…やがて私の位置の丸は真っ黒に塗り潰されてしまったのだ。

よーするに私は「タヌキの霊」にカケアミされたのである。これはどーゆー意味なの!?…と彼女を追及したかどうはもう思い出せないが、ハッキリとは説明してくれなかったと思う。何が言いたいんだ。私の事だけタタってやるとか、そういう悪い意味なのか。…しかし、あの手の動きと間合いを考えると、タヌキは私の位置を示した後、その人物にあまりにも霊感がないので、拒否反応を示したようにしか思えなかったのだ。つまり「こいつ(マル)…あ、こいつイヤ。(タテタテ)こいつダメ。(ヨコヨコ)こいつ嫌い。(ナナメナナメ)こいつ見えない。(逆ナナメナナメ)えーいもう塗ってやる!…(真っ黒)」そういう感じ。(- -;)なんか霊から「霊感ない認定」されたような気がした。

でもまあ…「見えない」私の考えなので、本当の所は分からない。カケアミはタヌキの仕業でなく、実は彼女が自分の意思で描いただけ…とも考えられるが、それも証明できない。そう言えば一度彼女にアシスタントを頼んだ時、やたらカケアミを細かく塗り潰してしまって使えなかった事がある。カケアミというのは、灰色の出ない荒いモノクロ2値印刷で灰色を表すための手段である。だから線は均等に、接触しないように引かないと印刷で潰れてしまうのだ。そこんとこ言ったんだけど…「私のカケアミが気に入らないの?」とか思って根に持ってた(^^;)可能性もないとは言えない。どうなんだろうなあ。彼女とはもう連絡が取れないので、タヌキの正体もカケアミの意味も、彼女のその時の心情も、私には謎のままなのである。

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2011年2月24日 (木)

北海道の超人。

えー…これは新婚旅行の時の話である。しんこん。(^^)ロマンチックでラブラブ…そんな映像を思い浮かべてはいけない。大体、結婚式が式場の都合で10月の終わりになった。いつかというと、つまりハロウィンの近辺だ。式後の写真はお化けカボチャに魔女の帽子に両刃斧。…どっこもめでたくない。(^^;)まーそれはともかく、旅行にだけは行こうという事になった。秋も終わり、冬に差し掛かるこの11月にどこに行くべきか?…ふつーは暖かい所とか、紅葉の綺麗な場所とか考えますよね。しかし新郎やまくんが提案したのは「東北・北海道海産物食べまくりツアー」…だった。そう、海の幸がうまいのは何たって冬。しかも北の親潮に洗われたものでなければならない!…という訳で、我々はこのクソ寒いのに車で東北自動車道を縦断し、当時はまだあった青函連絡船で北海道に渡り、名曲「落陽」にあやかって苫小牧発仙台行きフェリーで本州に帰る…という、まるで耐寒レースのような旅に出る事になったのだ。(T^T)車に乗ってさえすりゃー幸せ、というやまくんの本性の恐さが、この時はまだ私も良く分かってなかった。

まあ冬の北国も情緒があるし、途中の宿で食った海産物もそれなりにうまかったが…目的地の北海道は札幌に着いたら季節はもう酷寒。時計台見て赤レンガ見て外人墓地見て…ただ寒い。しかもまだ雪がない。秋と冬の観光シーズンのちょうど隙間、実は最も客の少ない季節だったのだ。(- -;)外をウロウロしてる人間は少ない。ロープウェイもあったけど止まっていた。…それでも根性で朝市とか、後に噴火するあたりの近辺とか、まあ車で移動出来る範囲を見て回った。最後は苫小牧である。…崖。海を臨む高台。カーブしたガードレールの向こうに冬の景観が広がっている。何を間違ったのか、ちょっと降りてみようという話になった。

降りた直後に、凍て付いた北の海風がびうー!びぅうー!と吹きまくった。うああー寒いー!海を眺めてロマンどころの騒ぎじゃない! コートを必死で押さえながら、我々は早々に引き上げる事にした。「こりゃーダメだ」「こんな所に10分もいたら凍死しちゃうよね」…その時。1人の男が我々に近付いて来るのが見えた。こんな人家もない、車でなければ誰も通らないような道を一体誰が?

それは、ランニングシャツに短パン姿のマラソンおやじだった。…我々と同じ寒風の中にいるのである。その筈である。しかし彼はそんな薄着で顔色一つ変えず、「寒いよ」みたいなアクションも取らず…全く当然のような顔をしてタッタッタと走って近付き…タッタッタと通り過ぎて行った。しばし呆然と見送る。「北海道人すげえ…」「いや、誰もがあんなじゃないでしょ」「いやいや、北海道人はみんなこの程度の寒さには慣れてるのかも知れない」

それが北海道の平均なのかどうか確かめる暇もないまま…そう長い休みも取れない我々は仙台行きフェリーに乗り込み、帰路に付いたのだった。この程度の寒さで音を上げる自分のふがいなさに立ち向かうため、私はフェリーの上で海風にさらされながら、ハーモニカで拓郎の「落陽」をひたすら吹きまくった。(- -)

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それが私の料理の聖典。

…その時代。昭和40年代。スパゲティーはまだナポリタンとミートソースの2種類しかなかった。コーヒーはミルクと砂糖が当たり前、ブラックなんて誰も飲まない。鯨肉が安く、ビフテキが買えない家は鯨ステーキ。お母さんの定番メニューは、鶏肉・人参・玉ねぎを入れたでっかいオムレツ。キウイ、パパイヤ、マンゴーはなく、トロピカルフルーツはパイナップルとバナナだけ。りんごは酸っぱい紅玉。マック(関西ではマクド(^^))もない。ケンタもない。ミスドもクレープも31もコンビニもファミレスも何もない。グルメという言葉自体誰も知らず、学生の帰り道のおやつは肉屋のコロッケだった。…そんな時代に、とんでもなく先進的な料理の本を私は持っていた。

それは婦人雑誌の別冊だった。まず表紙を開いて衝撃を受けた。婦人雑誌なのに、折り込みのグラビアに金髪美女の一色ヌード写真が。…と言っても背を向けて座り、顔だけ振り向いた姿なのでエッチではない。(^^)ただこの写真の場合、背中の方が衝撃なのだ。彼女の全身には、牛や豚の肉の部位を表す区切り、あれと同じ線があり、英語で肉の名称(ロースとかランプとか)が書かれていたのだ。だからってグロな感じでは全く無く、スレンダーな体型、頭にはカウボーイの帽子を被り、すました表情で振り向いた彼女はむしろカッコ良かった。下には「海外の写真雑誌から転載しました」とサラッと書いてあった。…料理関係の本なのに、グラビアからして只者ではなかった。

その中身。冒頭はカラーで「豪華な食卓」の写真。洋風、中華風、酒の席のオードブル風…とジャンル別に別れていて、当時の日本人がまず知らなかったメニューが並んでいた。詳細はさすがに忘れたが、私はこの本で初めて「杏仁豆腐」を知った。(無論、当時まだどこにも売ってない)息を呑むほどうまそう。おつまみを「カナッペ」と呼び、今では定番のクラッカーにチーズとか、そしてこれは今でも一般的でないセロリのレバーペースト詰めなどが紹介されている。…さらにめくると、やはり当時は誰も知らない「世界のスープ」が。冷たいスープ・ビシソワーズ、ガスパッチョ(東○ガスじゃないよ)、グリンピースの緑のスープ。普通のコーンスープさえ輸入物のキャンベルしかなく、贅沢だった時代にである。…せ、世界ではこんなん食べてるのかー!他にも「豪華な誕生日」など様々な特集が。料理というより、異次元の王宮のように見えた。

写真ページだけでなく、記事も充実していた。特に好きだったのは「世界の珍味」。かなりの情報量で謎の食材が列挙してある。グルメブームの20年も前に、私はこの記事でキャビアもフォアグラも名前だけ知っていた。(^^)「燕の巣」も、それがアナツバメというツバメとは関係のない鳥の巣だとか、洞窟で採取するとか、正確な情報が書かれていた。…おかげでグルメブームが到来した時も、私は特に驚かなかったのだ。(食べた訳ではない(^^))だけではなく、記事にはグルメブーム時でさえ広まらなかったメニューも多々含まれていた。今では保護されていて食べらない、どころか推理ゲームの代名詞になってしまった「ウミガメのスープ」、熊の掌、蚊の目玉の団子。…蚊の目玉は、洞窟のコウモリの糞の中から未消化のやつを洗い出すらしい。食べたいかどーかは別物だな。(^^;)

その他…「偽者に注意」。肉や魚の素材が安い代替品である事を警告し、写真比較したもの。シシャモが実はシシャモでないとか、銀むつはメロだとか、表示と中身が違う事が知られたのはごく最近だというのに。30年前のこの先見性はなんだ。ただ、そこには「鶏肉→実はウサギ」なんて驚きの偽者もあった。今とは違うセレクトだろう。…他にも、「芸能人のコーヒーの飲み方比較」、「新米お母さんのオムレツ製作対決」等、およそ食に関わる情報なら何でもあり。普通の「お料理Q&A」もあった。落し蓋とかアク取りとかかつら剥きとか、さしすせその調味料とか、私は料理の基礎知識をこの本で覚えたのだ。…ほんと、ただの別冊とは思えない、上流から庶民までフォローする凄まじい内容だった。長年何度も読み返した。さすがにもう失くしたが、この本は名作文学なんかよりずっと、私の人格の基礎を作った気がする。(^^)

時代は下り、バブルだグルメだと騒ぎ、それも失い…食文化はあの頃から見ると飛躍的に多様になったのに、この本に載っていて、いまだに世間で見た事がない料理も結構ある。…「豚のあばらのクラウン」。豚の肋骨を王冠のように巻き、中に詰め物をしてローストし、上を白い紙で飾ったもの。「あばらは肉屋さんで巻いてもらいましょう」とあったが、豚のあばら骨を置いてる肉屋なんてあったんだろうか。(^^;)「お誕生日の食卓」の項目だったと思うが、誰かお誕生日にこれを作って食べた、お金持ちの方はいますか。

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2011年2月23日 (水)

正統派怪談・やまくんと顔

連れ合いのやまくんは、多少「霊感」があるらしいが、滅多な事でそれを認めようとしない。変な物を感じても、極力「気のせいだ」で済ませようとする。色々と聞き出し、「いくら何でもそれは気のせいじゃないだろう」と突っ込んだら…こんな話をしてくれた。

やまくんは大阪の下町の生まれである。…そこは元々畑が連なり、タヌキの走り回る田舎だった。ある時「大阪万博」が開催される事になり、それに伴って新御堂筋線高架橋を建設する事になった。予定地はやまくんの住む町内のど真ん中。土地は買い上げられ、町内会は丸ごと移転するハメになったのである。…しかし立退き料はバッチリ支払われたので、住民はかなり綺麗になった新しい家に住む事ができ、特に苦情は出なかった。(^^)場所は元の町の目と鼻の先。やはり元は畑だった土地である。…まあ、そんな時代のお話。

その頃、やまくんの住む町内で「ヘビが出る」という騒ぎがあった。折りしも蒸し暑い夏場、町内会の倉庫に入ったおばさんが「ぎゃー!」と悲鳴を上げて駆け出して来る。炎天下の熱気を避けたいのか、巨大なヘビが暗い倉庫の中にとぐろを巻いて居座るようになったのだ。アオダイショウか何かで珍しい種類ではないらしいが、見掛けた子供の話によると「3~4mはあった」という。…まあ割引くとしても、2m以上ならかなり巨大である。そこは元々畑だった場所なので、住人は「土地の主じゃないか」と噂した。

で、その夏。やま少年はなぜか頻繁に「金縛り」に合っていた。ただ体が動かないだけで済む事もあったが、時には金縛りの最中に変な話し声が聞こえた。…その声は複数の人間がボソボソと会話しているような感じで、始めは部屋の外から聞こえてくる。やま少年が動けないまま聞いていると、やがて声はだんだん近付いて来る。もちろんそこには部屋の壁があるのだが、声はお構いなしに壁を通過して接近して来るのだ。…声はだんだん大きくなる。会話の内容はさっぱり分からない。やがてやま少年の頭の後ろにまで近接し、そこを通り抜け、声はそのまま反対側の壁の向こうへ抜けていく。…要するに通過していくだけらしい。恐い事は恐いが、特に実害はなかった。霊には通り道があるというから、この部屋がそれに当たっているのかも知れない、とやま少年は考えた。なんせ元は畑、後から家を建てたのは生きてる人間の都合である。

通り過ぎるだけなら良かったのだが。ある夜、やま少年はふっと目が覚めた。すると目の前に見知らぬ男の顔があったのだ。…首から下はなく顔だけ。至近距離。面前10センチ。あと一歩近付けばキス。(^^)うわぁあ!と驚き、やま少年はそのまま意識を失った。…というか、眠りに落ちた。聞く所によると、金縛りでオバケを見た後に「気絶する」という場合、いわゆる失神ではなく、そういう「突然眠りに落ちる」という状態になるらしい。余談でした。

そしてこの「顔事件」の後、やま少年は金縛りには合わなくなったという。ヘビとこの事件が関係があったのかどうかは不明だが、夏も過ぎ、それ以降大蛇の方も出る事はなかった。これは私の勝手な推測だが、何か人間でない物たちが、自分たちの通り道に居座った連中を「どれ、顔でも拝んでやるか」と覗きに来た…のかも知れない。

やまくんはこの話をした後、「なっ。だからあの顔は気のせい。夢だったんだよ」と締めくくった。…まあ、そんなもん見たら、気のせいか夢だと思いたくなる気持ちは良く分かった。(^^;)私だって「おっさんの顔が、もしそのままやまくんに覆い被さっていたら…」と思うと、すごく気のせいだと思いたくなるのである。

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2011年2月22日 (火)

窓抜けの達人技。

それがいつで、どこに住んでた時か、もう判然としないのだが。小学1,2年では小さ過ぎて届かない。5,6年生では大き過ぎて入らない…と思うから、多分小学3,4年の時だったと思う。

その頃、私はいわゆる「かぎっ子」だった。今はそういう呼び方はしないと思うが、要するに昼間は親が働いているので、鍵を持って学校に行き、もしくは鍵をどこかに置いてもらい、帰ったら誰もいない家に鍵を開けて入る…という子供の事である。もう普通なのかな。当時はまだ「お父さんは仕事、お母さんは専業主婦、だから子供が家に帰ったらお母さんがいるのは当たり前」という時代だったから、かぎっ子という言葉には「淋しいだろうから可哀想」というニュアンスがあった。…なんの。(^^)私は母子家庭歴が長かったし、母親がそーとーアクの強い性格で、正直いない方が楽(^^;)という面もあったし、何より1人で勝手に遊ぶのに慣れていたから、特に問題があるとも不自由とも思っていなかった。要はちゃんと鍵があって、家に出入りできればそれでいいのである。

その日、どういう状況だったのかはもう思い出せない。鍵を持って行くのを忘れたか、勘違いがあって鍵の置き場所が分からなくなったか、何かそんな事だったと思う。…学校から帰ったら鍵がない。家に入れないのだ。私は軽くパニックになった。親がいなくても驚かないが、せっかく帰って来たのにカバンが置けない、お茶も飲めない、部屋のらくがき帳も使えなければマンガも読めない、テレビも見られない…しかも母親の帰ってくる夕方まで。そんなのは嫌だー!…という訳で、必死で家に入る方法を考え始めた。無論、押せど叩けどドアからは入れない。

当時いたのはマンションかアパート。一戸建てには住んだ事がなかった。正面突破は無理なので周囲を探索する。裏に回ってベランダの向こうの、風呂場の小窓が開いているのに気付く。…あそこ以外入れる可能性はないな。でもベランダに直接上がれた訳はないから…多分、よそのお宅のベランダにどうにか潜り込み、そこから敷居を乗り越えて自分の家のベランダに辿り着いたんだろう。その程度の事はやらかすガキだった。で、どうにか自分ちのベランダに入り込み、風呂場の窓から潜入を開始した。…が。ここからの記憶がはっきりしないのだ。風呂場の窓というのはいわゆる「回転窓」で、どんなに開けても斜めになるだけで決して全開しないタイプ。潜り込もうにも大した隙間はない。なのに、私は四苦八苦してそこを通り抜け始めた。

結果的にいうと…かなりの時間を掛け、ついに私は風呂場の窓を突破した。幸い水の抜かれていた湯船に着地し、「やったー!おうちに入れたー!」と大喜びで中から鍵を開けたのは覚えている。…でも、どーやって。それがいまだに分からないのだ。頭から窓に突っ込んだんだとしよう。当然頭から落ちるから、無事では済まなかったろう。斜めの窓に阻まれて、途中で体勢を変える事は出来ない。…じゃあ足から潜り込んだのか。そもそも風呂場の窓自体が、小学生の子供には高過ぎる位置にある。何かを踏み台にして上ったとしても、そこに足先を入れるのは逆立ちでもしない限り不可能だ。で、当時もその後も私は逆立ちなんか出来ない。一体あの窓抜けはどうやったんだ…

子供は体が柔らかいし、体重も軽い。大人になった今となっては想像も付かないアクションで抜けたんだろうとは思う。でも目撃者も誰もいないし(大人が目撃してたら騒ぎになってたろう(^^))、今となっては謎としか言いようがない。…ただ、見事通り抜けた達成感の直後に、「あ、こんな事ができるのはこれが最後だろうな…」とぼんやり考えた事は覚えている。子供の時にしか出来ない事、分からない事というのは結構あるのかも知れない。

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2011年2月21日 (月)

これが元祖ポイントカードだ

今、ポイントカードには色々な形式がある。一番スマートなのはICチップか。次が磁気ストライプの読み取り式。少し前のは裏面全体が黒とか茶の磁気シート。それ以前のタイプは大体、区分けした紙のカードにシールを貼っていく。もっと簡単なのは小さなハンコを押す。…これらのポイントカードは今でも使われている。でも、私が子供の頃はこーいうのは無かった。親が熱心に集めていた「市場の買い物券」は…糊貼りだった。

「市場」である。小奇麗な「スーパー」ではない。買い物をすると、その値段に応じた数だけ、小さな切手そっくりの券をくれる。ミシン目を手で切り取るのだ。切手と違う所は、印刷が一色で安そうなこと。そして裏に糊も何も付いてないこと。(付いてるタイプもあったかな?)店の側にはこの券がずらっと並んだ、ミシン目入りの大きなシートが用意してあり、そこから少しずつ破り取っては客に配る。忙しい最中に手で破るので、時として破り方がいーかげんになり、端が欠ける事もある。…高い買い物には多くの券を出す訳だから、シートの原本から幾分繋がったままで破り取られる。そういうのは見た目もキレイで貰う方も気持ちがいい。(^^)しかし、せこい買い物だと「券1枚」という場合もあり、そういうのは破りにくいのかキレイには切れてなかった。

…で、この券をどうするかというと、同じく市場の各店舗に置いてある「台紙」をもらって(これは頼めばいつでもくれる)、そこに手で貼るのである。台紙には券を貼るマス目のラインと、あと薄い色で宣伝なんかが印刷してあった。お母さん連中は大抵買い物券を財布の中に溜め込んでおり、券がある程度集まると「工作用のり」を持ち出して来て、マス目に合わせて貼っていく。…面倒な作業である。だからよく「あんたやっときなさい」と子供に押し付ける。(^^)そんな訳で、私もよくこの「券貼り」をやらされた。大きく繋がったままの券は当然貼りやすくて楽。(はみ出した分は破って次の段へ。わかるね)だが…一枚一枚にバラけたやつは。面積が小さいから、糊を付けるとベチャーっとはみ出してかなりイヤだった。その上、長い間財布の中で眠っていて、出し入れされる札や硬貨にもまれてきた1枚券はかなりボロボロになっている。時として、「そこまで小さくなるか」というくらい折り畳まれている。それを破かないように広げて伸ばして、1枚も無駄にしないように張り込んでいく。何故なら…この「台紙」、ケチな事に両面この買い物券で埋めないと換金してくれないのだ。もう少しで完成!…という所まで来ても、あと1枚が足りなくては使えない。ともあれ、お買い物券の完成は結構真剣勝負だった。完成した台紙は、あらゆるサイズの券を繋ぎ合わせた物なので見た目ガタガタだったが、埋め切った達成感があった。(^^)

出来た物は親に納入(?)するが、親の機嫌がいいとそれで何かおごってくれる。一番ゴージャスだったのはお好み焼き。でもまあそれは時々で、大抵はお茶屋の前かどっかに設置してある「グリーンティ」か「冷やしあめ」だった。…地域によって違うのかも知れないが、当時の行きつけの市場では何故かこの二つが大抵セットだった。冷えた透明のタンクの中で液が回っている。缶でもビンでも売ってない飲み物だから、それだけ妙なスペシャル感があり、飲ませてもらえない普段の買い物時は羨望のマナコで眺めながら通り過ぎた。

この先、ポイントは完全に電子化していくだろう。あの糊まみれで奮闘した時代に戻りたいとは思わないが、一個一個マスを埋めていく庶民の努力は、今も形を変えて健在なんだなーと思っている。

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2011年2月20日 (日)

花火は一瞬の幻…

いやー、この話は実はもう周辺状況をほとんど忘れてるんだ。(^^)まだ結婚はしてなかった。某漫画同人会Sグループのメンバーも若く、その頃は海に山に、何かにつけて大人数で行楽に動いていた。…あ、人数は減ったが、今でも独身のメンバーは行ってるらしい。

その夏は伊豆の海だった。メンバーに別荘を持っている恵まれた人間がいて、毎年夏になると集団でそこへ押し掛けていたのだ。海でどう遊んだかは覚えてない。…目玉企画は夜だった。今回は、浜辺で力を入れた花火大会をしようというので、昼のうちに大量に買い込んであったのだ。何と言っても、住宅のある街中ではそんなにでかい筒物やロケット花火は使えない。しかし広い浜辺なら火の玉飛ばし放題、というわけである。あれがいい、これがいいと…そうだな。当時で6000円分くらい買っていた。期待を持たせる、ぶっとい筒の打ち上げ花火もあった。包みでは間に合わないので、大きな紙袋に全部入れて持って帰り、夜になるとそれを浜辺に持ち出した。

メインイベントの筒物は後回し。まずは小さい物から前哨戦を始める。普通の手持ち花火や、地面に置くタイプのネズミ花火の類もある。私はオクビョーなのでスタンダードなのをやってたと思う。(^^)メンバーは当時でも立派に大人だったが、もう大はしゃぎ。…やがて誰かが「プロペラ状の花火」に火を点けた。調べたら名称は「とんぼ」と言うらしい。二枚の、ちょっとねじれた紙の羽が付けられた小さな筒花火で、導火線に点火すると火薬の勢いで飛ぶと同時に回転し、竹とんぼのように舞い上がる。これがまた良く飛ぶのである。…びょーん!わー飛んだ飛んだ…え?

角度が悪かったのか、とんぼ花火は低空飛行し、近くに置いてあった「花火の紙袋」の中に見事スッポリと飛び込んだのである。

誰かが「伏せろー!」と叫んだ。…次の瞬間。どぱぱぱぱ!ぱちぱち!ヒューンヒューン!と袋が大爆発し始めた。浜辺はマインスター状態。色とりどりの花火が一気に燃え上がる。時々、うまく上を向いていた筒物からヒューンと火の玉が空に飛んでいく。…一同呆然。ある意味キレイ。6000円の花火は、1分も経たないうちに全部灰になったのであった。

最近はもう花火もやらなくなったなあ。大人になったから…と言うより、人間一度すごいものを見てしまうと、それに及ばない物では満足出来なくなるからかも知れないな。(^^)

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2011年2月19日 (土)

記憶喪失を知らない子供たち

母がマンションの管理人を始めた頃かな。まだ、マンション自体が珍しくてそこでよく遊んでいた。…と言っても人が住んでいる部屋の前で騒ぐ訳にはいかない。屋上や外周である。屋上に出るフロアには、ベンチなどを収納してある待合室のようなスペースがあった。屋上自体は吹きさらしで何も無いし、誰も来ない小部屋なのでちょっと秘密基地(^^)のような風情もあったから、一時期は友達とよくそのフロアに入り浸っていた。

その日は「無人島漂流ごっこ」か何かをしていたと思う。その頃は翻訳された「15少年漂流記」がよく読まれていたし、そういうアニメや海外ドラマもあったから、「無人島に漂流」というのは子供にも分かりやすい設定だった。まして当時の私は漂流物が大好き。「大きくなったら無人島に漂流しよう!」という完全に現実を見誤った(^^;)ロマンさえ持っていた。…で、「無人島に流れ着いた」という設定の私がはっと目覚める。周囲を見回す。

私「ここはどこ? 私はだれ?」

しかしツッコミが入った。「ちょっと待って。なぜここにいるの、と思わなきゃ変じゃない?」…それはそうだと納得し、テイク2。

私「ここはどこ? 私はだれ? なぜここにいるの?」…今度は別の友達からツッコミが。「今日が何日か、も分からないんじゃない?」…仕方ない、テイク3。

私「ここはどこ? 私はだれ? なぜここにいるの? 今何日?」…しかしリテイクは終わらない。「記憶喪失なんだから、自分の家とか、年とかも忘れてるよね」「なぜこんな事になったの、とかも聞いた方がいいと思う」「あと、これからどうしたらいいの、とか」…

その後。私のセリフはどんどん長くなっていったのだった。はっと目覚めては、友達の言う項目を付け足していくので際限がない。

私「ここはどこ? 私はだれ? なぜここにいるの? 今何日? 私の家はどこ? 私は何歳? これからどうしたらいいの? 食べるものはあるの? 他に誰か住んでないの? ここはどこの国の…」もう記憶も定かでないから、詳細は当時と違ってると思うが…まーそんな風に、およそ「記憶を失くしたら疑問に思うであろう事」を全部並べるハメになったのだ。(- -;)なんか記憶力ゲームに似ている。何項目まで暗記したのか、どーやってこの事態を終了させたのかはもう思い出せない。ともあれ、終わった時はゼーゼー言って「記憶喪失って大変だなあ」と思ったのだけは確かだ。

幸いにしてこの年まで記憶を失くした経験はないが、不慮のうたた寝をしてハッと目覚め、寝ぼけてしばらく自分が何をしてたのか思い出せない事は時々ある。そういう時は「ここはどこ?」とも「私はだれ?」とも思わない。「あー……何だっけ。何か食ったっけ。まーいいや」くらが関の山である。人間、あまり自分を問い詰め過ぎてはいけないと思うんだな。(- -)

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2011年2月18日 (金)

チラシの裏とノートの裏

今の子供には想像もつかない世界だろうから書いておくが、昔、いわゆる「らくがき帳」をあまり買ってもらえなった子供は、お絵かきしたい時は「チラシの裏」を使った。(^^)そう、今でも新聞に入って来る、「本日大根○○円!」みたいな、スーパーなんかのチラシ。あれの裏の白い部分に描くのである。無論、「お絵かき出来るチラシ」には条件があった。まず両面に広告が印刷されてないこと(当たり前だね)、紙が薄過ぎてインクが透けてないこと(当時は紙質が悪く、裏まで真っ黒なやつが結構あった)、そして何より、紙がコーティングされた光沢紙でないこと。光沢のあるやつには鉛筆が使えないのである。つまりお母さんにとって一番便利であろう「両面にカラー広告、きれいな光沢」のチラシは、描きたい子供にとっては役立たずそのものだった。(^^)…裏が白く、普通の模造紙程度の質のチラシだけ抜き出して集め、二つに折ってホッチキスで止め、ノートを作った。そういうものによく描いていた。だから何の汚れも印刷の透けもない、綺麗な表紙まで付いている市販の「らくがき帳」は、その頃ある意味ゴージャスな憧れの品だった。

今の「らくがき帳」はアニメやキャラクターの絵が付いているものが多いみたいだが、当時は、特に女の子向けのらくがき帳の表紙には、今となっては伝説の領域である高名な少女漫画家の先生たちが、惜しみなくオリジナルキャラクターを描いていた。(男の子向けはロボットや車の絵だったかな)…考えてみればすげー贅沢。(^^;)よくそんなの安価で売ったもんだ。…で、「漫画家になるんだもん」という私の主張をやや理解した親は、小学校の頃はそういうノートも買ってくれるようになった。着飾った美少女が表紙に描かれているだけではなく、めくると表紙裏にも塗り絵みたいな一色のイラスト。1ページ目は「切り取ってお友だちに送りましょう」みたいなカードのイラスト。大サービスである。…そして、何より当時は裏表紙に「着せ替え」が付いていた。女の子のスタイル画と、その周囲に色々なお洋服。バッグとか小物が付いてる場合もある。切り取って遊ぶのだ。お洋服の肩には白い長方形が突き出ていて、この白い部分を折り曲げて女の子の肩に乗っける。うっかり切り落とすと着せられなくなる。(^^)…本体である「女の子の人形」は、上から服を着せる関係上、最小必要限の衣装しか着けていない。つまり…下着とか水着。(^^;)何となく「えっちだけど、いーのかこれ」と思った記憶がある。

「高名な漫画家の絵」と書いたが、それがあるのはさすがにメーカー品で、どことも付かないメーカーのノートには、やはり誰とも分からない作家のイラストが付いていた。絵はうまいヘタ色々。じぇんじぇん可愛くない女の子のイラストのはさすがに敬遠した。(^^;)お洋服のデザインも千差万別で、素敵なのもしょぼい物もあった。…ノートの中身も使ったが、やはり付いてる物は切り取ってみないと気が済まないから、らくがき帳はいつも裏表紙が欠落していた。やっちゃうとノートの傷みが早いんだけどね。お人形は買ってもらっても、玩具屋に並ぶキラキラした「着せ替え衣装」まで次々買ってもらえる子は多くなかったろう。この手軽な紙人形は、そういう女の子の欲求不満のツボを見事に射抜いていたと思う。…でも、私には物足りなかった。ノート片面のスペースなので、着せ替える衣装が2着くらいしかないのだ。「もーちょっと増やせないの?」とか思い、衣装の絵を描いて自作してみる。肩の折りしろもバッチリ。着せてみる…きれーでない。自分にデザインセンスが無い事を思い知る。濃いカラー印刷と、色鉛筆で塗った薄い色のギャップも気に掛かる。ついにはお人形自体を自分で描き、衣装も自分で考え、手製の「着せ替えセット」まで製作した。やったー!これでノート買わなくたって何着でも着せ替え出来る!…しかし、すぐに飽きてしまった。(- -;)やっぱり自分で惚れ込めるほどの美少女や衣装は描けなかったね。そしてらくがき帳本来の使用目的に戻ったのである。

実は…小学校6年くらいの時に漫画を描いた、この「らくがき帳」が今でも1冊残っている。表紙は里中満智子大先生の美少女。コマを割ったストーリーマンガを、生まれて初めてちゃんと完結させた(^^)記念に、取っておく事に決めたのだ。しかし、中身は今でも恐ろしくて開けられない。「昔の自分の絵を見ると、正視できなくてキャッと伏せてしまう」という漫画家は結構多い。…ましてや小坊のガキの頃の自分の絵なんて。(^^;)パンドラの箱か爆弾か、つーくらいのものだ。何かの拍子に見付け、表紙の里中先生の美少女だけ眺めて「うんうんキレイキレイ」とまた仕舞い込むだけなのである。

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奇跡の鉄条網ワープ?

やまくんの、幼い頃のささやかな思い出。

まだ学校に上がる前の、小さいやま坊や。彼はその日お気に入りの三輪車で爆走していた。…家の近所には斜面がある。ここ降りると速いんだ!…と、やま坊やはざーっと勢いよく走り降りる。しかし、はっと気付くと斜面を降りた辺りには鉄条網が張られていた。うわぁ、ぶつかる!必死でブレーキを掛けるが間に合わない。このままではあのトゲトゲに突っ込んじゃう! やがて鉄条網が目前に迫る。やま坊や絶体絶命。彼は思わず目を閉じた。

ふっと気付くと、やま坊やはまだ何事もなく走っている。…あれ? 鉄条網は背後。ぶつかった感触はない。もちろん怪我一つしていない。いくら小さいからって、鉄条網の最下段は彼がノータッチでくぐれるほど高くはない。無論切れ目もない。長く張られているので、横から回り込める可能性もない。つまり…どういう訳だか、やま坊やは行く手を遮る鉄条網を「通り抜けて」しまったのだ。有り得ない。そんな筈はない。…しかし、幼いやま坊やの頭にとっさに浮かんだ言葉は「ラッキー♪」だった。

その後、小学校に上がりやや物心がついた頃に、やま少年はこの事件を思い出した。あれは…何だったんだろう。考えてみるが分からない。謎だ。…結論として彼は「ラッキーだったなあ♪」と思った。

そして。立派に成人したやま中年、今でもこの出来事を覚えている。しかし、あの時何が起こったのかは、大人の知識と良識で考えてもやっぱり分からないのだった。仕方ないので、彼は今もこの事件の事を「俺ってラッキーだったんだよ♪」で済ます事にしている。

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2011年2月16日 (水)

扁桃腺物語。

これは、私の人生を大きく変えた、扁桃腺手術の物語。(^^)

小さい頃…私はすごく病弱で、食も細かった。ご飯時になると逃げ回って、母は苦労させられたそうだ。学校でも食べるのが遅く、給食がいつまで経っても終わらない。昼に掃除をする事になってたから、まだモソモソ食べている私の机だけを残し、当番が他の机をガタガタ後ろへ下げてしまう。始まった掃除の横で、取り残された私は1人半泣きのまま給食を食べ続ける。…その上頻繁に40℃近い高熱を出した。扁桃腺が弱く、すぐに腫れるのである。母は夜中に医者に走らされる事もしょっちゅう。相当参っていたようだ。

…で。最近はあまり勧められないようだが、当時は「扁桃腺手術」がすごく流行っていた。流行ってたと言うと何だけど、ちょっと熱を出す子供がいるとすぐ「切りましょう」と言う医者が多かったのだ。そんな訳で、ついに私の母も医者に手術を相談した。かしこまっている私と母を前に、耳鼻咽喉科の医者は難しい顔で言った。「お子さんを歌手にするつもりはありますか?」…はあ?私はあまりの唐突さに目がてんてん。母はそんなつもりは無かったし、私も将来漫画家になるつもりだったので、「ないです」と答えた。医者が言うには、扁桃腺を取ってしまったら歌手になるのは無理なんだそうだ。今は扁桃腺切除のデメリットとして「風邪を引きやすくなる」「免疫が弱くなる」なんて言われてるようだが(そんな事はない、という解説もある)、私にとって扁桃腺はただ歌手への登竜門に過ぎなかった。(^^;)…そんな訳で、手術する事になった。

局所麻酔で、意識があるまま口を「あんが」と開けさせられ、口の中に冷たい金属の鉗子やメスを突っ込まれる。「痛くない?」「はがはが」…痛くは無いが、目の前で自分の体の一部を切り取る所を目撃させられるのだから、ショックは並大抵ではない。手術は無事終わり、私の扁桃腺とアデノイドは切除された。やがて医者はホルマリンに漬けた扁桃腺を見せた。…スモモくらいある。でけえ。こんなんが無くなったのか。医者には切ったモノを家族や本人に見せる風習がある事をこの時知った。…あれってどーなのと思うけど。(- -;)

しばらく学校は休み。一週間ほど、痛くてつばも飲み込めなかった。というか「つばを飲み込んではいけない」と言われた。一々口を洗いに行くから大変である。喉の中には甘苦い薬を塗られる。これがヒジョーに不味くて食欲も沸かない。ただ、何故か「トマトジュースだけはいい」と言われたので、数日間主食はトマトジュースになった。…実は、それまで私は好き嫌いが多く、トマトジュースも大嫌いだったのだ。なのにこの時飲んだトマトジュースの美味しかったこと。(^^;)…食料それだけだったからかも知れないが、私は自分の食が変わったのを感じた。

さーそれから。…私は完全に人格が変わった。ゴハンがうまい。何杯でも食う。好き嫌いも無くなった。給食はクラスで一番に食べ終え、他の肉の嫌いな子供が残してたら「それちょーだい」と意地汚くもらって食べる。熱も出さないから元気一杯。うまくはないが歌もちゃんと歌える。病弱な美少女(?)は、活発でやかましい関西のガキに生まれ変わったのだ。してなければ、全く違う人生を歩んでいただろうと思う。…ただし手術をしても「相変わらず熱も出すし、デメリットの方が大きかった」という人もいるようだ。これは体質によると思うので、万人がそうはならない事をお断りしておきます。<(_ _)>私の場合は体が適合した。

ただまあ…障害物がなくなり、喉鼻が弱くなったのは確かなようで、小学6年くらいの頃は「アレルギー性鼻炎」が酷くなった。しょっちゅう鼻が詰まり、授業中だろうが見境なくハナをかむ。机の上は鼻紙だらけ。ついに「鼻の神」というあだ名が付いた。(- -;)おかげでシリアスしてても通じなくなったので、それ以来ギャグ志向になった。…という深刻なデメリットはあったものの、大人になってこれも治ったし、歌手にもならなかったし、何よりメシがうまい人生になった事は今でも感謝している。

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お天気ワンちゃんの社会問題

昔…と言ってもいつか忘れた。まだ小学生の頃かな。うちに「お天気ワンちゃん」という人形があった。当時すごく流行ってたと思う。いわゆる首振り人形で、胴の上にでかい頭がバネで乗っかっていた。目は、角度によって絵が変わるやつで、ユラユラするとウインクするという趣向。…でもまあ形状は別に関係ないのだ。このワンちゃんの特徴はその体色にあった。人形の全身にはビロード地(今はベルベットと言うのか?)みたいなものが張ってあり、買って来た時は大体青だ。それが置いておくと、湿度の高い日にはピンクに変わる。つまり湿度計なのである。シリカゲルによく入ってた「青→ピンクの小粒」と同じ原理。ワンちゃんがピンクの日は雨が降りますヨ、という訳で「お天気ワンちゃん」なのだった。これ、最近見ないなあと思ってネットで調べたら、驚くべき事が分かった。…いや、驚かない人もいるだろうけど、まだ一般には知られてないと思う。これに使われている「塩化コバルト」が、発がん性があるというので規制され始めているらしいのだ。

塩化コバルトは、乾燥していると青、水分を含むとピンク(濃ければ赤)に変わる。ブツさえあれば、実験が簡単なので子供でも確かめられる。この性質を利用し、昔から湿度計代わりに使われていた。お天気ワンちゃんはすたれたかも知れないが、シリカゲルの中の青の小粒や、除湿剤の「表示がピンクに変わったらお取替え」みたいな目安表示は長いこと現役だった。これが今使えなくなってきている。発がん性がある、と言い出したのはEU。「指令」とゆーのが発せられたそうだ。「指令」は加盟国に「目的達成を求める」というくらいのもので、本来法的な規制でもないらしいが、影響力はかなりあるんだろう。事実、日本なんてEUじゃないのに業界は既に対応している。塩化コバルトを使わない色変わり湿度表示が開発されたり、そもそも湿度表示をやめたり。言われてみれば最近シリカゲルの中に青の粒が入ってない。でも、長年塩化コバルト含有の製品を作ってきた子会社なんかは、いきなり使用中止を言われて困惑してる風である。で、「規制される法的根拠があるのか」と聞くと…これが明確にはないらしいのだ。

ややこしい話になってしまうが。(- -;)まず「PRTR法」というのがある。これは各国にあり、日本でも1999年に法制化された。(Wiki調べ)PRTRは「特定化学物質の環境への何たらかたら」…という長い名称の略で、要は「危ない化学物質がどーなってるか調べるぞー」というだけの法である。調べなかったら罰があるが、使ったって罰はない。(変だね)で、塩化コバルトはこれの対象に挙げられている。…一方、EUの指令はRoHS指令とも言われ、EU加盟国にしか効力がない。ここでは鉛とか水銀とか、いかにも危ない物質6種類が明確に禁止されている。それは別にいいのだが、塩化コバルトはこの6種類には入ってない。ならなんで文句を言われるのかというと、それ以外の「危険物リスト」に入っており、発がん性は「カテゴリー2」…「すごくヤバくはないけど、結構ヤバい」くらいにランク付けされているから、らしい。でも、日本では含有量が低かったら一応「可」、の筈である。なのに自主的に使用をやめる所が増えている。ブラックリストにある以上、後で被害だ訴訟だ、という騒ぎが起こる前にやめた方がローリスク…という判断だろう。

でも昔、お天気ワンちゃんならさんざん触ったりして遊んだと思うし。シリカゲルのピンクになった玉をあぶって「わー青に戻った」なんて実験もやった事があるし。ほんとに危険なのか、今さら言われたってどうなのか、こちとらには実際の影響は分からない。触っただけでアウトか、なめたらアウトか、湿度が低い時と高い時で危険度は違うのか(つまり揮発したりするのか)、それも分からない。…ちなみに、うちのお天気ワンちゃんは年月が経つにつれ大体ピンクになっていた。雨でなくても。湿気は定着するし、良く考えたら洗面所かどこか水場に置かれていた気がする。…ダメじゃん。(- -;)こういう物は飽きて来ると邪魔にされるんだよな。そしてやがて黒カビが付き、汚くなったので捨てられた。…ような記憶がある。おぼろげに。あの頃無心に首を振っていたワンちゃんには、今環境問題やら法的問題の重ーい鎖が掛けられてしまっている。

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2011年2月15日 (火)

○○党の花見。

これは…ほんとに単なる目撃譚で、何の展開もない話。

やまくんとうっかり結婚してから、しばらく埼玉の公団住宅で暮らしていた。やまくん唯一の特技(他にもあるわい!と言われそうだ(^^))は車の運転で、その頃は結構、休日にあちこち車で連れて行ってもらった。埼玉だと東京も近いし、結構各所へのアクセスがいいのである。今は千葉の海っぺたなので、動くのも一苦労だが。

で。とある春、水元公園に花見に出掛けた。…ちなみに水元公園は葛飾区だが、実はその頃住んでた場所のごく近所である。(と言うとどの辺りにいたか分かっちゃうね。(^^)まーいいけど)おりしも春爛漫。桜満開。川辺の広大な公園に、それはたくさんの花見客が繰り出している。場所を取り、シートを敷いて宴会をやっている人々と、それと花を眺めながら通り過ぎる人々。我々は、二人で宴会やってもしゃーないので通り抜け組である。ワイワイ楽しそうな騒ぎを見ながら歩いて行くと、明るい宴会風景の中に一箇所だけ、妙に薄暗い感じの場所があった。…何て言うか、そこだけ空気が違う。周囲とは明らかに隔絶した、静けさと寒さが漂っている。漫画で言うと、そこだけ上から「タテセン」が降りている感じ。怪談なら、急に寒くなり、いよいよそこにオバケがいる!…というシチュエーションの雰囲気。

そこにいたのは…「○○党」のノボリを上げた花見の一団だった。

この党が何党かは、せーじてき問題になると困るので絶対書かない。(^^)推察していただきたい。…花見なのだ。無論彼らもシートを敷き、飲み物や食べ物を用意してあるのだ。なのに…誰も喋ってない。全員しんとして体育座りしたまま、一団の中心を眺めている。そこでは1人の男性が、哀愁をいっぱいに漂わせ、感情込めてハーモニカを演奏している真っ最中だった。

いや別に…どんな花の見方をしたって人の自由なんだけどね。なぜハーモニカ。「うまいぞー」と声を掛ける訳でもなく、喋るわけでもなく、「真剣に聞かねばならないっ!」という顔をして、なぜ体育座り。楽しいのかそれ。…私はオバケやUFOを目撃するよりも衝撃を受けた。確かに、桜の下にはなんとかが埋まってる、という話もあるけどね。ふつーは埋まってるのは化学肥料とかミミズくらいだと思うから、別に明るくしたって桜は怒らないと思うよ。(^^;)

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2011年2月14日 (月)

バレンタイン無情。

あまり心温まらない話だから、書くか書かないか迷ったんだが。(- -)

中学くらいの頃。その時代はまだバレンタインデーが定着し始めた初期で、「義理チョコ」だの「友チョコ」だの浅い関係のプレゼントは広まってなかったし、季節になっても今ほどゴージャス商品や、大々的なチョコレート商戦はなかったと思う。バレンタインに小中学生がふつーに買うのは、某メーカーの薄っぺらいハート型のチョコ。確か100円くらいで安かったのだ。それでも…男子でないので良く分からないが、男の子はかなり意識してたかな。だからその時代にチョコを渡すのは、「渡す」というだけでかなり本命度が高かった。

バレンタインが近いある日、クラスの女子が「ねえ、カンパに協力してくれない?」と言ってきた。何のカンパかと聞くと、なんでも「クラスの女子からお金を集め、クラスの男子全員にチョコレートを送ろう」という企画らしいのだ。この季節には、もらえる男子ともらえない男子の間に「格差」が出来てしまう事は知ってたし、義理チョコの概念が確定してなかったとはいえ、友達複数に安いチョコをあげて人間関係良くする…くらいの事はあったから、私もあーいいヨと軽い気持ちでカンパに応じた。(100円くらいだったと思う(^^))漫画やアニメではしゃいでただけで、色恋沙汰にまったく疎かった当時の私には「お歳暮やお中元みたいなもんね」という感覚しかなかった。…そして、企画者はチョコを大量に買い込んできた。カンパが安かっただけあって、例のハート型チョコレート。

それから…どうしたのか知らない。私は企画にはタッチしてなかったので、その事件が起きるまでカンパの事なんて半分忘れていたのだ。バレンタインデー当日、それは起きた。気付くと教室中に大量の砕けたチョコが散らばっている。ゴミ箱に、机の下に、明らかに無茶苦茶に踏み付けられて粉になってる物も。今現在腹立たしげにチョコを攻撃してる男子もいる。…そう、プレゼントは完全拒否されていた。聞いてみると、企画者は普通に「これ、クラスの女子一同から」と言ってチョコを渡した訳ではなかった。ご丁寧にチョコ一つ一つに「○○くんへ。このチョコの事は誰にも言わないでね」という手紙を付けて机に入れておいたらしいのだ。…言わないでったって。近所の机で誰かがチョコを見つけたらすぐ分かるじゃん。その辺の詰めの甘さがまあ…中学生な訳だが、要するに男子はプレゼントを「全員が本命チョコのふりをしてからかわれた」と受け止めたのである。それが無闇な怒りを呼び、あの惨状になったという訳だ。…でも、当時の企画者のために弁明しておくと、彼女らは決して悪気はなかったと思う。悪気で金まで集めたり、面倒な手紙を一つ一つ書いたりするだろうか。(- -)

…以下は想像だが、「普通に渡しても、本気じゃないんだから喜ばないよね」「だったら本気っぽい手紙を付けよう」「でも、同じ手紙なら分かっちゃうじゃん」「『誰にも言わないで』って書いておけばいいのよ」…くらいなノリで、ともかくウケようと思ってこんな演出をしたのではないか。でも、その後このチョコ事件は禁句状態になり、誰も触れようとしなくなった。だから私も事態の詳細は知らないままだ。ただ、自分のカンパがあんな形になり、普通に食べればおいしいチョコが無残な姿になったのは、ちょっとやるせなかった。

それ以来、私は「チョコで愛情表現しよう」なんて考えは全く無くなった。(- -)そんなお菓子屋の陰謀に乗せられる事はないと。一応義理のある男子が群れている時、12個くらい入ってるチョコの箱を目の前で開けて、「はい義理。はい義理」と言って一同に配った事があるくらい。男性というのは、想像以上に繊細というか、考え過ぎる生き物だ…という事を学んだので、誤解を招くような事は極力したくないのだ。それでも今、連れ合いのやまくんは、本来甘い物大嫌いにも関わらず、バレンタインになると「チョコくれチョコくれ」と請求する。持ってないとその1日が無事に過ごせないかのように。たかがお菓子を「そこそこモテる、という身分証明書」にしてしまうのはいかがなものかなー。

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2011年2月13日 (日)

なんか安そうなインプラント…

やまくんが高校の頃の話だという。彼には兄がいて、この兄弟非常に性格の相性が悪かった。親やご近所には兄の方が可愛がられていたが、実は兄は弱くてズルくて、おやつは奪い取るわ、失敗は弟のせいにするわ。やま少年はいつもリスクを押し付けられていたらしい。しかし年少の悲しさ、兄は本来非力なのに、ケンカをするとやま少年はいつも兄にボコられていた。

そんなある日。朝目が覚めると、やま少年は顔に傷が出来ているのに気が付いた。深くはなく、引っかき傷のような物で特に痛くはないが、引っかいた覚えもないので不思議に思ったという。しかも1日でそれは消えてしまった。…そして翌朝。また引っかき傷が。別に猫も飼ってないし、夜中に兄貴が引っかいてる…訳でもないだろうなあ。そして1日が過ぎる。次の朝。またまた引っかき傷が。

結局、この日から1カ月ほど、彼の顔にはほぼ毎日引っかき傷が出来たのだ。場所は額、もしくは頬だったという。変ではあるが、だからって特に生活は影響はないし、防ごうにも寝てる間なので、いつ出来るのかも分からない。仕方ないからやま少年はそのまま普通に暮らしていた。…しかしある朝。目覚めるといつものように額に傷が出来おり、やま少年はふとそれを手で触った。そしたら、何かの物体が「ぽろっ」と額から落ちて来た。

それは、透明でツルッとした、長方形のプラ板のような破片だった。

…本当にプラスチックかどうかは分からない。何かそんなような物、としか言いようがない。しかも、それは額の傷から「生えて」出て来たように思えた。普通に考えて、人体からプラ板が生える事は有り得ないだろう。万が一あったとしても、額なんて肉はほぼないから、傷口のすぐ下は頭蓋骨のはずだ。骨から何か生えたりするだろうか。いや、むしろこれは今まで額の皮膚の中に埋まってたんじゃないのか。まさか…インプラント? その頃流行っていたUFOの話がやま少年の頭を過ぎる。宇宙人にさらわれた人間が、体内に何か埋め込まれ、記憶を消されて帰されるという、アレ。俺はいつの間にか宇宙人にさらわれていたんじゃないだろうか。でも、プラ板ぽい非伝導物質に情報を入れたり、通信したりできるんだろうか。… で、プラ板の謎は解けないまま、結局やま少年はその物質をゴミ箱に捨ててしまったという。そして、その日を境に顔に引っかき傷が付く現象はピタリと無くなった。

それからの彼の日常は…特に変化はなかった。ただ一つ、プラ板が出て以来、やま少年は今まで決して勝てなかった兄にケンカで勝てるようになったという。それ以来負け知らず。果たして宇宙人が「ようし、いじめられてる弟がケンカで勝てるよう、強くなるデータを彼の脳内に送るぞ!」…とインプラントを行い、役目を終えたプラ板が顔から出た…なんていう変な事件が起きたのか否か。それは誰にも分からない。

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2011年2月12日 (土)

白銀のロードスター。

その当時の事を私はほとんど忘れているので、一緒に目撃したやまくんに確認しながら書きました。(^^)

私は生涯でスキーに行った経験は一度しかない。その時の目撃談である。…ある冬、漫画同人「Sグループ」の有志は、長野の某スキー場に向かうため、つるんで高速を走っていた。機動力、行動力のない私も、やはりSグループのメンバーで車好きの「やまくん」と当時うっかり結婚していたので、彼の車に乗せられて同行する事になったのだ。その往路で彼らの目を引いたのは、この寒い冬場にフルオープンで走っている一台のロードスターだった。車好きの多いSグループのメンバーは「いやあ、根性あるなあ」と感心。蛇足ながら解説しておくと、ロードスターというのはMAZUDAのスポーツカーで、天井部分を完全に外す事ができる。つまり滑らかなボディにフロントガラスとシートだけが突き出している形状になる。スマートだが完全に吹きさらし。ボディの中、座席部分だけが凹んでいる状態な訳だ。まさに風と一体になって(^^)走るので、冬場にフルオープンにする人間はあまりいない。勇猛なロードスターはSグループと同じ方向に彼らを追い抜いて行った。

やがてSグループはスキー場に到着。駐車場には、例のロードスターがフルオープンのまま停車してある。やはり同じこのスキー場に向かっていたのだ。「おいおい、このまま停めてて大丈夫か」という声が上がったが、知り合いでもないし別にどうも出来ない。それはさておき、Sグループ一団はスキーの準備をして、やがて楽しくゲレンデで滑り始めた。…ちなみに私個人の事は聞かないで欲しい。(^^)全くの初心者で、ズボズボ雪に突っ込んだ記憶しかないからだ。そんな訳で、昼頃は天候も良く快調だったが、夕方になると空が荒れ始めた。吹雪いてきたのである。空はどんより暗い灰色になり、雪で視界が悪くなった。これはいかんといのうで、我々をはじめスキー客の大半は麓の施設まで降りて来た。リフトが止まった、という話が流れた。スキー場の職員があわただしく周辺を走っている。

その時…Sグループ一団が見た物は、あの駐車場のロードスターが雪に埋まっている姿だった。

くどいようだが、フルオープンのロードスターは滑らかなボディの中、凹んだ座席部分が露出している。つまり子供用の「プール」、もしくは「箱」にそっくりなわけだ。(^^)オーナーはまだ戻って来ていない。吹雪は遠慮なく、座席部分にどんどん降ってはずんずん積もる。座席の「箱」はたっぷりの雪で埋まっている。これ…オーナー帰って来たらどーするつもりなんだろう… 掘らなきゃシートもハンドルもアクセルも出て来ない… つーか、もしこのまま雪が溶けたらそのまんま「プール」になるのでは… Sグループのメンバーは、だからと言って他人様の車を追跡調査する訳にもいかないので、謎を残したまま帰路に付いたのだった。

当然、その後の事は分からないが、やはりロードスターは暖かい、乾燥した季節に、風に髪をなびかせて乗るべきネ、というのが結論だろう。…でも、私にとって最もショッキングだったロードスターはこれではなかった。(- -)その後のバブル期、私が家に帰って来ると、突然新品のロードスターが家の前に停めてあった事があったのだ。マイカーは既に2台あるのに。やまくんの首を締め上げたら、MAZUDAの営業さんを断れなくて…とかボソボソぬかした。いくらバブルだからって。しかも私に断りもなく。(- -;)…もうあの経済状況に戻る事は二度とないだろう。人間、身の丈にあったカーライフを送るのが一番です。

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2011年2月11日 (金)

ドクダミは毒じゃないんだが

小学校に上がる頃、私は母方の田舎に預けられた。

我がおかんはバリバリの関西人のくせに、格好つけて当時の私に標準語を仕込んでいた。その状態で、突然ど田舎で暮らす事になったのである。小学校に入ると、私はすぐ「言葉が変だ」と言われて同級生たちにからかわれた。…変なのはどっちだよ。(- -)と言い返す知恵もまだない。生まれたのは大阪の下町なので、田舎の自然物に対する知識も全くない。とにかく周囲から浮いてたらしく、悪ガキからすると、こんなからかいがいのある奴はいなかったようだ。通学路のあぜ道近辺に、よく「ドクダミ」が生えていた。なんだかおしべだけが大きい異様な花。その見かけと「ドクダミ」という名前から、私はこれが毒草だとすっかり信じ込んでいた。それがおかしかったらしく、悪ガキは「こんなの無害だよ」とはちっとも教えてくれず、下校途中なんかにドクダミを持って「ほーら毒だぞー」と差し出しながら追い掛けて来た。私は泣きながら必死に走って逃げた。(- -;)…何も知らないというのは不幸な事だ。

それが毒草でなく、漢方薬で使う薬草だと知ったのは随分後だった。そうは思っても、なんせ原体験が原体験だから好きにはなれなかった。しかし田舎で暮らしたのは1年足らず。その後はまた大阪に越し、ドクダミなど生えない住宅街で母親と同居になったので、そんな植物の事は長い間忘れていた。…しかし。多分私が中学生くらいの頃。母親が突然、「今日からこれにするからね」と言っていつも飲むお茶を変えた。なんか、やや臭気があるような甘いような変な味。…それは「十薬」。ドクダミを煎じたお茶だったのである。

逃げて逃げ回っていたドクダミが、年月を経て追い付いて来た感じ。…でも毒ではない。逆に十薬というくらいで、十もの体にいい効能があるのだ。…とは思うのだが、なんせ私の母親、一度やり始めると徹底するタチだった。それからうちで飲むお茶は全て十薬だった。冷蔵庫で冷やしてあるのも十薬。熱いのも十薬。だからお茶漬けも十薬。…味が変だ。そして学校に持って行くお茶も。今はどうだか知らないが、私の頃は学校にはジュースやクーラーなんて洒落たものは無かった。夏場は容赦なく暑い。だから多くの生徒がピッチャーに入れたお茶を、冷凍庫で凍らせて学校に持って来た。少しずつ溶ける冷たいお茶を飲むのである。無論私の持って行くピッチャーの中身は…十薬。こういう物を持参しても、あまり暑いと生徒たちは授業が終わる前に飲み干してしまう。友達のお茶が残っていたら貰ったりして飲む。私も「お茶くれる?」と言われた時、自分のお茶を友達に飲ませてあげた。その頃はもう十薬にマヒしていて、それが普通と思っていたのだ。…が。一口飲んだ友達はそれは変な顔をした。「これは十薬といって、体にいいいんだ」と説明したと思うんだが…二度と友達は私のお茶を貰わなくなった。(^^)十薬は本来薬であってお茶ではない、という事に私は改めて気付いたのだ。だからって「ほーらドクダミだぞー 体にいいぞー」と言って友達を追い掛け回したりは…もちろんしなかったが。

やがて、母親は飽きて普通のお茶に戻した。月日は流れ、結婚してから母親がこの十薬をたっぷり送って来た事があった。「高血圧に効くから飲みなさい」と言って。…私は低血圧なんだが。(^^;)それに、サイトで調べたら十薬は動脈硬化予防や利尿に効果があるのであって、血圧低下は書いてないんだが。まあ、ひょっとしたらあの頃の十薬のおかげで今も元気なのかも知れない。

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2011年2月 9日 (水)

花の香りは上か下か

キンモクセイという花がある。木にオレンジの小さい花がわーっと群れて咲く。季節になると、キンモクセイを植えている庭の周辺に特徴的な甘い香りが漂う。…しかし、そんな風情のある庭が近所にない場所で育った子供は、それが花の香りだという事が分からない。

昔「EVE」というガムがあった。大人っぽいデザインで高級そう。どんなんだ、と思って買って食べてみた。…うがぁ!な、何だこれは。食品でなく化粧品の味だぁー!…と、子供の私はパニック。これ、キンモクセイの香りを使った、画期的な「香水ガム」だったのだ。調べてみたら、当時このガムのファンだった人の要望で2010年に復刻発売されたりしたらしい。オシャレで大人っぽくて好きだった、という声が結構ある。でもまあ、食べた当時の私は何のオシャレ心もないハナタレガキだったので。(^^)このガムを理解するのに時間が掛かった。…キンモクセイの香りって書いてあるが、キンモクセイって何だ? まず花を知らない。ともあれ、入ってるのは化学薬品でなく花の香料らしいと分かって一安心。食べてはいけないものを食べたのかと思ったのだ。…後に、どこかの庭で「あれがキンモクセイよ」と教えられた。花の香りとして嗅いだら大変いい香りだ。ようやっとキンモクセイが好きになった。

そして…成長した頃。まだ上京前、私の母親が、トイレの芳香剤に好んで「ピコレット・キンモクセイの香り」を置くようになった。へぇーこれって芳香剤にもなるんだ…と感心してたら、そのうち世間の子供が庭のキンモクセイを指差して「あートイレの匂いだー」と言うようになった。それでちょっと世間で「嘆かわしい」とか問題になってたように記憶している。(^^)ただ、問題になった頃は多分、私はもう上京して下宿にいた。共同トイレに自腹で芳香剤を買って置くほど親切ではなかったから、しばらくトイレの芳香剤とは無縁の生活を送っていた。そうこうするうちに、ピコレットが世間から消えた。私はてっきり、この「キンモクセイをトイレと言われた事件」が影響して売らなくなったのだと思ってたが、調べたら発売元の藤沢薬品が家庭用薬品から撤退、事業をライオンに譲り渡し、んでそのライオンが発売を止めたんだと分かった。…複雑な事情があったんだね。でも、じゃーそのライオンはなんで「キンモクセイ芳香剤」を止めてしまったのか。ピコレット世代の人は、いまだにキンモクセイを嗅ぐと「トイレの匂い」と思うらしいから、やっぱりこの件の影響がなかったとは言えないだろう。「風雅な花の香りを、子供にトイレの匂いと記憶さるのはいかがなものか」…という配慮。

そんな訳で最近は、キンモクセイ芳香剤は全く見なくなった。ちょっと淋しい気もする。しかし、無いにもかかわらず「キンモクセイ=トイレ」というイメージは、ある世代に根強く残っている。子供の時の刷り込みって生涯引きずるもんねえ。私の場合キンモクセイ初体験はガムだったから、イコールトイレ、という感覚はない。…しかしだな。「トイレ」のイメージを持った人がキンモクセイガムを食べた場合、一体どうなってしまうのだろう?…それを想像すると、大きなお世話とはいえなんかちょっと心配なのである。

余談だが、結婚して間もない頃「桂花」という良く分からない小瓶を買ってしまった。中国産の薬味で、赤黒くねっとりしてるから「豆板醤」の一種と間違えたのだ。これは実は、あちらで正月用の菓子などに使う「キンモクセイの香料」だった。結局、何に使っていいのか分からないまま破棄してしまった。もったいない。やはり日本人がキンモクセイを食べる、ってのはいまいち板に付かないようだ。(- -)

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2011年2月 8日 (火)

卵のなれの果て…

…あんまりキレイな話ではないので、ちょっとお気を付け下さい。(^^;)

下宿生活をしていた頃。始めは2階の4畳半に住んでたんだが、隣の部屋にいたのが劇団員らしき兄ちゃんだった。「らしき」というのは、付き合いがほとんど無かったので詳細を何も知らないのである。その頃いた下宿、実は隣に知ってる人は知ってるという小劇場があって、名もない劇団がよく公演をしていた。だからその関係の人ではなかったかと思う。

下宿の2階には共同のトイレと台所があった。私もビンボだった(^^)ので、そんなにちゃんとした食材を買って本格的な料理まではしなかったが、残りご飯でおかゆなんかはよく作っていた。…ある日、私が台所に行くと、珍しく隣の兄ちゃんがフライパンを持ち出して真面目に料理をしている。野菜炒めらしい。キャベツなんかの具材に調子よくジュージューと火が通っていく。やがて兄ちゃん、鼻歌交じりで自分の部屋に取って返すと卵を一つ持って来た。これで仕上げするつもりらしい。へえ、そこまでやるかと横目で眺めていたら…

フライパンの上、カパッと割られた卵の中から、およそ今まで見た事のない、正体不明の茶色の物体がでろっと野菜の上に落ちた。…え?? と私は驚いて固まった。次の瞬間、0コンマ数秒くらいの速さで、兄ちゃんはせっかくの野菜炒めごとそれを廃棄してしまった。私も追及するのは恐いので、温まった自分の鍋を持ってそのまま自分の部屋に戻ったのだった。あれって元は卵…だろうなあ。(^^;)さすがにそこまで腐らせた経験がないので、茶色の物体の詳細は分からないが、この先も特に知りたいとは思わない。

私はその後、同じ下宿の1階にある、やや広い部屋に引っ越した。その部屋は極小サイズだが一応台所が付いていたので、2階の共同台所に行く事はもうなかった。しかし、1階の玄関先のやや広い板間、つまり私の部屋の扉のすぐ横には、時々訳の分からない物が置かれていた。巨大なミッ○ーマウスの首とか。(^^)やはり巨大で、人間が入れるほどのサイズのシーフードヌードルの容器とか。劇団の小道具だったらしいが、蛍光灯のあまり利かない夜の板間の片隅に、突然「大ネズミの首!」とかがぬっと見えるのはあまり心臓に良いもんじゃなかった。(^^;)(そのせいか、今でもディ○ニーキャラクターはあまり好きでない)…ちなみにシーフードヌードルの方は、それをテーマにした芝居が隣の劇場で公演されているのを後日目撃したので、使用したのは確かだと思う。その芝居ってどんなのか…それは全く分からない。ごめん、ちょっと見に行く勇気とお金が無かったんだ。

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2011年2月 7日 (月)

一流アナウンサーはあわてない。

テレビで、アナウンサーが言い間違や失敗をして話題になる事がある。「旧中山道を1日中やまみちと読んだ」等、有名なのは伝説になってるし、ネットに動画も上がってる場合もある。…しかし、私が目撃した「ものすごい放送事故」は、いまだネットでもどこでも取り上げられたのを見た事がない。なぜだろー。…そんな訳で、私が忘れたら消えてしまう話かも知れないからここに記録しておきます。

その当時やってたワイドショー。2時から4時くらいまでの、奥様向けの古いタイプの番組だった。総合司会はあの、スーパーなんとかくんの人である。(^^)奥様でも時事問題くらい勉強するのである。その日は中東問題を取り上げていた。ちょうどタリバンがアフガニスタンを支配して大変な騒ぎになっていた頃だ。アフガニスタンってどこにあるの?という訳で、地図のフリップが運び込まれた。それをカメラに向けて立て、解説しようと司会のKさんが地図を覗き込んだ。「えーこのタリバンが…」

しかし、地図には堂々とした文字で「タンバリン」と書かれていた。

暇なので、ぼーっとその番組を眺めていた私は…次の瞬間のた打ち回って爆笑したので、あと細かい事は覚えてないが、確かKさんはあわてなかった。「これは間違ってますね」か何か言って静かにフリップを伏せ、地図を使わず自力で解説を始めた、と思う。そして何事も無かったかのように番組は進行した。一流のアナウンサーは、このくらいの事で動揺したり爆笑したりしてはいけないんだなー、と感心した事件だった。

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クモ布の夢。

子供の頃、子供向けに易しい文章で書かれた「世界名作文学全集」みたいなセットがあった。母親が本好きなので揃えてくれたようだ。…でも全作に感動出来た(^^)訳ではなく、私は主に「西遊記」ばっかり読み返していた。確かそのシリーズに収録されてたと思うんだが、「緑の館」という話があってね。これはイギリスのウィリアム・ハドソンという作家の小説で、オードリー・ヘップバーン主演で映画化もされてるそうだ。ただしWikiに「ヘップバーンの数少ない失敗作」とまで書かれてるから…映画の方はまーいいとして。(^^)

ストーリーは、ある青年が南米の森で妖精のような少女に出会うロマンス。彼女は事情があって人間世界から離れ、大自然と一体になって暮らしている。調べたら最後は悲劇になるらしいが、子供の頃の記憶からはロマンスもアクションもラストも抜け落ちている。私が覚えていたのは、鳥のような声で小鳥と会話し、樹上を飛び歩く可愛いターザン(^^)みたいなイメージだけだ。「わー私もやってみたい」という意味で。実は…自作品「プロフェッサーに告ぐ」のリィという登場人物のイメージもこれが根源だったりする。でもまあ、それも置いといて。この話のどこがそんなに気に入ったかと言うと、実は彼女の「服」だった。…確か、キラキラと虹色に輝く不思議な布で織られていて、主人公はその材質が分からない。仲良くなってから、彼女は主人公に服の生地を作る所を見せてくれる。小さなクモを手に乗せ、その糸を指でクチャクチャしたら、そこにキラキラ輝く丸い部分が出来ていた…というのだ。つまり彼女の服はクモの糸で出来ていたのである。今考えると「そんなん絶対無理じゃん」と思うのだが、なんせ子供。その辺のクモの糸で布が作れると思い込んだ。これは絶対作りたいと思った。

それ以来。私はクモの巣を見ると、「取り合えず指でつまんでクチャクチャ織ってみる」ようになった。せっかく苦労して綺麗に巣を張ったクモからしたらいい迷惑である。…おかしい。ちっとも織れない。まず、布のように平面状にくっ付ける事ができないのだ。でも不可能とは思えない。いわゆる「クモの巣型」に張られた糸はどーにもならないが、庭木などにはよくレースのような、白い布状のクモの巣が葉と葉の間に掛けられていたからだ。あーいうのを作りたいのだ。…しかし、庭木の「布状のクモの糸」は大抵ゴミだらけで、そのまま布には出来そうにない。大体、取ったら固まりになっちゃってうまく採取できない。子供なので特に気の利いた道具も持ってないから、Uの字に曲がったまま枯れた葉っぱなんかで「布状クモの糸」の綺麗な部分をそーっとすくい取り、重ねる…とか色々やってみた。だめだ。何故なんだ。…そうか、あの小説の舞台はジャングルだから、クモもこんな日本のとは種類が違って、糸が丈夫なのかも知れない。それとも、あの女の子の「クモの糸を織る指の動かし方」に秘密があるのかも。クモの糸を織るのはいわゆる職人技で、私のような素人には会得できないのかも。つっても教えてくれる人いないしなあ… とか、子供の私はクモの巣の塊を前に悩んでいた。 

まあ結論としては挫折した(^^)わけだが、しばらくは綺麗に張られたクモの巣を見るといじりたくて仕方なかった。こんなのはファンタジー、科学知識の未熟な昔の小説によくある大ぼらに過ぎない…成長してからはそう思うようになった。ところが、これが違った。実は現在、最先端バイオ技術を駆使して「クモの糸で布を作る」という研究が実際になされているらしいのだ。とあるサイトによると、クモの糸は鉄よりも強く、太さ5マイクロメートルで数グラムを吊り下げられる。これを直径1cmにするとジェット機さえ下げられるという。ほんとかー!(^^)やっぱりクモ糸すげえ。そのうち夢の「クモの糸の服」が市販されるかも知れない。

ただ…バイオ技術だ、強度だ、採算だという話になると、あの「少女が指を器用に動かして織っていたクモの布」のイメージではなくなるなー、とは思うのだ。技術が完成し、クモの服が売られても、それはきっと「光によってキラキラ色を変える、ジャングルの魔法の衣装」ではないだろう。それでも、市販されたら絶対1着は買ってしまうだろうな。

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2011年2月 5日 (土)

レコードプレイヤー・速度計円盤

CDの時代になり、ちまたからレコードプレイヤーは一度絶滅した。…のに、今復活してるんだよな。しかもレコードのアナログ音源をデジタルに変換し、録音まで出来ちゃう優れもの。私も聞けなくなって久しいレコードを随分持ってるんだ。そのうち是非欲しい。(^^)…ただ、長年湿気っぽい押入れの中にぎゅう詰めされていたようなレコードが、いまだひん曲がらずプレイに耐えられるかどーかが分からない。ボコボコ曲がったレコードって、掛けると斜面の登りでは曲が遅くなり、下りでは速くなるって知ってましたか。(^^)重力加速度の法則に従っちゃうんだね。

中学くらいから、私は親にもらった小型のレコードプレイヤーを大事に使い続けていた。親も誰かから貰ったんだと思う。買った記憶がない。…取っ手が付いていて、蓋を閉めるとケースのようになり、持ち運びに便利。シングルレコード向きのサイズだったが、プレイヤーから思いっ切りはみ出させてギリギリLPも聞けた。当時好きだったアニメの主題歌や、はまっていたカーペンターズのヒット曲集、ホルストの「惑星」なんかもみんなこれで聞いた。時にはテープ録音にも使った。レコードを掛け、カセットの録音スイッチを押し、あとはひたすら息を殺して曲が終わるのを待つ。ライン入力なんて出来ないし、その頃はオーディオ機器にそんな便利な機能がある事すら知らなかった。

回転数の切り替えはダイヤルで行う。しかし…アバウトな機械なので、長い間聞いていると回転速度が狂って来るらしいのだ。そういう微妙な速度を手動で調節するダイヤルが別に付いていた。でも、今聞いている曲のスピードが正常より速いのか遅いのか、どのくらい調節すればいいのか、なんて曲を聞いただけでは分からない。それを計るために付いていたのが「速度計円盤」である。…つっても、ほんとの名称ではないだろう。何て呼ぶのか知らないので仮にこう呼んでるだけだ。ただの、ドーナツ盤サイズの丸い紙っぺらである。表面に、何周も細かいストライプの円が印刷されている。…何て表現すればいいかな。梯子のようにだんだらになった黒白ストライプのテープを思い浮かべて欲しい。それをぐるーっと円周に沿って貼ったような感じ。ただ、黒白の梯子線は円周に対して直角でなくやや斜めに傾いている。角度は周によってまちまち。これが外周、少し中、その中…と内側の穴に向かって続いている。…見てると目がグルグルしてくるような模様だ。

速度を調節したい時、この円盤をプレイヤーで回す。すると、目の錯覚で黒白ストライプが見えなくなり、代わりにややオレンジがかった別の縞模様が、円の中をゆっくり回転してるように見えてくるのだ。…目が模様を認識し、残像が消えるまでのタイムラグでこういう現象が起きるらしい。子供向けの科学実験なんかで似た円盤を回してるのを見た事がある。しかし、なんでレコード聞くのに目の実験をせねばならんのか?…そう。この「幻のオレンジの縞」がピタッと止まっているように見えた時、回転速度は正しくなっている、というのだ。縞が流れて見える時は速度は狂っている。調節ダイヤルをゆっくり動かすと、この縞の流れが後退したり、逆に速まったりする。ピッタリ止まる点を探すのである。ちなみにストライプが何重もあるのは、「一番外側の周はLPの速度調節用」「中ほどはドーナツ盤用」…と分けられているため。LPが33 1/3回転、ドーナツ盤が45回転だ。「SP盤」の78回転までセット出来た。さすがにSP盤を聞いた事はなかったが。

何という…アナログの極致だろう。(^^)微細な速度を、機械に頼らず人間の網膜で計測するんだから。そういう所を含め、私はこのプレイヤーが大好きだった。漫画家になろうと上京した時だって持って行った。でも…CD全盛時代を待つ事すらなく、プレイヤーは壊れて二度と鳴らなくなった。針が飛んだとかそーいうのではない。突然スピーカーが「ボン」という音と共に煙を噴き上げ、爆発したのだ。(- -;)…あまりに長年使い過ぎてオーバーヒートしたのか。まさか爆発で最期を遂げるとは思ってもみなかった。コンピュータのない時代、機械は人力と一体になって初めて動くものだったよな。そんな不自由さがどこか懐かしかったりする。

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2011年2月 4日 (金)

宇宙人、それともあの…

やまくんが高校時代に目撃した、異様なものの話。

季節は初夏。その日はテストで、やま少年は終わった後、家に帰ろうと駅のホームにぼんやり立っていた。線路を挟んで向こう側にホームが見える。何人かの客が電車を待っている。…え?

Yamanoe2_2客の中に「変な人間」が1人混じっているのだ。これはやまくんが描いた、その人間のイラスト。女性である。帽子を深く被っていて顔は見えない。一見普通のようだが、何か違う… やま少年は違和感の原因に気が付いてゾッとした。「腰」がないのだ。彼女の足は、腰を介さずいきなり胴体から生えている。こんな人類はいない。もしいたとしても、そういう人を目撃したら普通の人間は驚くなり、あとずさるなり、何か反応をするはずだ。しかし、彼女の周囲の電車待ちの客は誰一人気が付いてない様子。見えているのはやま少年1人らしい。…やがて、待っていた電車がホームに入って来た。それ以上関わりたくなかったやま少年は、そそくさと電車に乗り込んだ。だからこの「変な人間」がその後どうしたのか、何者だったのかは分からないままだという。

この話を口頭だけで聞いていた時、私はもっと異様な「怪人類」を思い浮かべていた。しかし、今回やまくんが特別サービスでイラストを描いてくれた。…これを見て初めて気が付いた事がある。そう、腰が無く、足が直接胴体から生えている生き物。それって「鳥」ではないのか?何故か分からんが後部にピンと張り出したスカートは尾のようだし、傾いた目深な幅広帽子はクチバシに見える。

やまくん自身の考えでは、「あれは宇宙人だったに違いない」…という解釈なのだが、私はこれ、あの某お笑いコンビがネタに使っていた「鳥のような人間」、つまり「鳥人」ではないかと思うのだ。(^^)実際にいるのかも知れない。鳥とのハーフか、それとも長生きし過ぎたダチョウなんかが術を使うようになり、人間に変身した姿なのか。猫が化けると猫又だけど、鳥だと「鳥又」になるのかな。…まあどの道謎は解けないだろうから、色々想像したって構わないと思う。ちなみに「へそ」があるように描かれてるが、これはうっかりペン先を突いてしまっただけで、へそ出し姿だった訳ではないそうです。

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あの二人がどつき合うオモチャ

これは…多分今でも持っている筈だ。買ったのは結婚してから。埼玉に住んでいる頃じゃないかと思う。捨てた覚えはないから、押し入れのどこか人跡未踏の奥地に眠っている。

オモチャである。箱の上、黒○徹子さんそっくり人形と、塩沢○きさんそっくり人形がでかいトンカチを持って向かい合っている。二人の背後の箱の端にレバーがあり、操作すると、なんとこの二人がどつき合いを始めるのである。二人の間には、値札の付いた「バーゲン品」が置いてあったと思う。バッグだかアクセサリーだか忘れたが、これを取り合って戦うという設定らしい。トンカチで相手をぶっ倒した方が勝ち。オモチャの名称は確か「山の手婦人」。決して「○柳」とも「○沢」とも書いてないが、誰がどー見たってモデルは間違いようがない。…発見した時は驚愕した。ついで、私もやまくんも大ウケした。思わず買ってしまった。何度か遊んだと思うが、壊すと嫌なので「これは永久保存版」と決めて片付けた。…記憶は以上である。塩○さんの「巨大なヘアスタイル」が話題になってた頃だ。まだバブルで、うちも世間もつまらない物に金を使っていた。

○沢さんが亡くなった時、とっさに脳裏をよぎったのはこのオモチャだった。…信じられなかった。あの、ゴージャスで生命力のカタマリのように見えた人が、長い癌との闘病生活を送っていたとは。オモチャはもうどこに行ったのか分からなかったが、もし見たらギャップですごく悲しくなったに違いない。…「うるさいやつ」「元気すぎ」「殺したって死なない」、そんなイメージで笑いの種になる人間は、芸能界に限らずあちこちにいるが、裏までが必ずしも日なたであるとは限らない。それでも望んで元気さを売りにしてきたなら、人に弱っている姿を見せたくない、暗い姿で記憶されたくないと思うんじゃないだろうか。自分の事を思い出した時、明るく「あの人面白かったね」と言って欲しいんじゃないだろうか。…そんな気がするのだ。だから私はこの肖像権侵害の「ひでぇオモチャ」を今でも悪い物とは思わない。いつか発見したら、また二人に元気にどつき合いをさせて遊んでみたいと思う。

ちなみに、塩○さんのライバル役のあの人は…まだ元気だ。よかった。この際、「ツタンカーメンの頃から生きている」と言われようが、「ヘアスタイルの中に謎の物体が埋まっている」と言われようが、末永く元気で頑張っていただきたいと願っている。

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2011年2月 3日 (木)

赤玉鉄砲の悲劇。

今の子供たちは、もう玩具のピストルを撃ち合って遊んだりはあまりしないだろう。いかにも親や学校や「こめんてーたー」がこぞって批判しそうだし。その代わり、いい年したオッサン達が森の中で玩具の銃を撃ち合ってたりする。それも最近は下火かな。

今、安いモデルガンを買うと大抵オレンジのプラスチックの玉が付いて来る。一番廉価のBB弾だ。これを家の中で撃つと、散らかって拾うのが大変だ。放置したら踏ん付けて痛い。だからって屋外で撃てば燃えないゴミになる。昔使われた「銀玉」は、あれでも中身は土だそうで、野原で散らしても自然に帰るんだそうだ。進歩は退歩だな。…私が子供の頃、近所の男の子の間ではそういうのが主流だったが、いつからか銀玉でなく「赤玉」が爆発的に流行り出した。赤玉。それは玉ではなく、赤い紙の間に粒状の火薬を挟み込んだシートである。つまり見た目ピッ○エレキバンみたいな感じ。私は一応女子(^^)なので、直接買った事はない。ネットの資料、および連れ合いのやまくんの証言によると、この赤玉には一列に繋がった「巻きタイプ」と「シートタイプ」の2種類があった。巻きタイプは順送りで連射が可能。だが火薬の爆発力はやや弱く、過激な方が好きな悪ガキはシートを好んだようだ。これを使って引き金を引くと、もちろん実体としての弾は出ないが、金具が打ち付けられて火薬が爆発し「パーン」というリアルな音が出る。ほのかな硝煙の臭い。…実際、テレビで銃撃戦の場面を見ても弾が飛ぶ所なんか分からないし、音や煙、臭いの方がリアリティはあるだろう。当時の男の子はワクワクしたに違いない。…いや、私も一度いじってみたかったんだけどね。(^^)女の子が「おかーさんピストルと火薬買って」は中々言えないじゃん。

やがて、この赤玉遊びはエスカレートした。野原で缶や何かを置き、パーンといわせている男の子の姿を時々見かけた。どうやら赤玉をほぐし、火薬を取り出して使うようになっていったらしい。赤玉の小分けの火薬では物足りなくなり、分量を集めて爆発させていたわけだ。無論危険だ。でもガキなら考えそうな事ではある。…やがて、突然「赤玉」を使う事が学校で禁止された。近所の駄菓子屋や玩具屋から赤玉が消えた。詳細は知らないが、噂によると事故が起きたらしい。誰かが、ビンの中にほぐした火薬を大量に詰め、爆発させたのだ。子供用の弱い火薬とはいえ、集めれば、そしてビンで密閉すればかなりの威力になったんだろう。ビンは破裂し、破片が飛び散った。そして爆発させた子供は片目を失明した、と。

今時こんな事故が起きたら、凄まじくマスコミが叩いて社会問題になるだろう。でも、当時は噂と共に赤玉だけがひっそり町内から消えていった。…ほめられた事件では全くない。でも「火薬なんか売ったメーカーの責任だ!」「ほぐして使った子供が悪い!」「親の教育が!」…みたいなうっとーしい騒ぎが起きなくても、子供たちは「火薬って恐いんだな」という事を、変な使い方をすればどうなるかという、その物理的な威力を身をもって実感した。社会がずさんで危険が身近にあったからこそ学んだ事は多くある。やたら「危険の情報」自体を叩き潰し、隠蔽する社会の方が子供にとって良くないと思うのは私だけだろうか。

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2011年2月 2日 (水)

色分解転写シール

ちょっと調べてみたら、最近はインクジェットプリンタで手軽に「転写シール」が作れるらしい。何に使うのかと思ったら、タトゥー風のボディペインティング、ネイルアート、あとイタ車のキャラクターだって。普通にプラモその他おもちゃ用のデカールも作れるようだ。水に浮かせて剥がす物が多いが、こすって写すタイプもある。…こんなん自作できる時代になったんだなあ。タトゥーなんて使った事がないので知らないが、昔ながらのプラモのデカール(^^)なら仕様は大体分かる。…普通のシールと違い、もの凄く薄っぺらな、絵柄が印刷されたシールが台紙に乗っている。これを台紙を濡らせて浮かせ、貼りたい部分にそーっと移動させて水気を取り、乾かす。シールの裏には糊も付いてるが、むしろ物体とシールの間の空気を完全に抜く事で、真空の圧力を利用してしっかり固定する。

昔、お菓子のオマケなんかに「こするタイプ」の転写シールが付いている事があった。台紙は透明でやや丈夫なシート。これの裏に薄いシール本体が貼ってある。貼りたい部分に当て、丈夫なシートの面、つまり表面から強くこする。すると透明な台紙からシールが離れ、貼った物体の方に移って密着するというわけ。うっかり間違えて表でなく、シール本体の貼ってある裏面をこすれば、薄いシールは即座に破けて一巻の終わり。(^^)子供の頃面白がってよく貼ったが、なんせガキなので表裏を間違う事も多かった。こすり方にもコツが必要だ。こすってる最中は透明な台紙を固定し、絶対位置を動かしてはいけない。「ずるっ」とずれたりすると、つられて薄いシール本体がべろんとめくれたり、破れたり、折り曲がったりして台無しになる。必死で元に戻そうと試みるが、なんせ薄い物だから、一度傷付くと絶対状況回復出来ない。貼り付けた後も、その上をうっかり爪でこすったりしたらガリガリ削り取られてしまう。…子供には少々扱いの難しい物だった。そのせいか、オマケなどの範疇ではやがて転写シールは見なくなった。でも、丈夫な紙に普通に糊の付いた野暮ったい「分厚いシール」より、転写シールの方が難しい分、高級でスマートに見えたものだ。

そういう「オマケに付いて来た転写シール」で、忘れられない物がある。それが「色分解転写シール」。何のオマケだったかさっぱり覚えていないが、なんと一つの絵が赤、青、黄の三原色に分かれているのだ。1枚1枚を見るとただの赤、青、黄のまだら模様で、何が描いてあるのか分からない。これを3枚重ねると、綺麗なフルカラーの絵が現れる。確か南国の町の情景か何かだったと思う。色の美しさを見せるために選ばれた絵柄だろう。…貼る前に重ねても、この「混色の不思議」は良く分かった。色々組み合わせ、「わー重ねるとこーなるんだ!」と、子供心にいたく感動。私は一気に加法混色の原理を理解した。しかし、さあ実際にシールを貼ってみようという段になると…躊躇した。3枚をピッタリ重ねないといけない。ちょっとでもズレたら台無しになるのは分かっている。しかも転写シールに関して、私は何度も失敗した経験があった。(- -;)それに、こーやって3色に分かれるから凄いのであって、重ねて貼ってしまうともはや「普通のシール」にしか見えないではないか。そして子供の私は、何を考えたのかついに3色を別々の場所に貼ってしまったのだ。その一つは、確か冷蔵庫でお茶を冷やす「ピッチャー」に貼られていた。…そんな水洗いする物に剥がれ易いシールを貼らなくたって。単に面がツルツルで貼り易かったのだと思うが。何度もこすられ、もうガタガタのボロボロになった「黄色だけの絵」が、長い事ピッチャーに貼り付いてたのをおぼろげに覚えている。

たかがオマケなのに「3原色分解」のシールを作り、なおかつキャラクターや宣伝でなく「南国の町」の絵を選んだ…その本体の商品は一体何だったのだろう。今でも微妙に気に掛かる。そして、あの時の「赤と青だけならこう!」「赤と黄なら!」「青と黄なら!」「うわぁ重ねるとキレイ!」…という単純な感動を、もう一度味わってみたい気がするのである。

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2011年2月 1日 (火)

おかしなお菓子・スリージェイ

子供の頃、私は親に「駄菓子なんか食べちゃいけません!」とか言われ、あまりお菓子を買ってもらえなかった。その代わり、いわゆる「冷蔵庫で作るデザート」のたぐいは結構食べさせてもらってたように思う。

一番頻度が高かったのは、ハウスの「シャービック」。夏場限定だが、水で溶いて製氷皿に注いで凍らせるだけだから自分でも簡単に作れた。その次に記憶があるのはゼリーの素。これもハウスの「ゼリエース」だったかな。やや温めたお湯で作る。熱過ぎても冷たくても駄目なようで、ちょっと面倒だった。ごくたまに作ったのがプリン。当事は必ず牛乳を使わなきゃいけなかった。素は買ってもらえても、必ずしも牛乳が冷蔵庫に無かったりしたので、製作頻度は低かった。(^^)ただ一度だけ作った記憶があるのが…「ユングフラウ」。シャービックの豪華版みたいなやつで、シャーベットでなくアイスクリームになる。すげー美味しかったが、期間限定発売だったのか、すぐに見なくなった。やがて「フルーチェ」が登場。牛乳を加えた時の見事な固まりように感動した。最高に美味しかったのは、更に後に出た日清の「クールン」。レアチーズケーキの素だ。当事はまだレアチーズケーキなんて高級なお菓子は近辺になく、テレビや雑誌の中で見るだけの存在だった。それが自作出来てしまう。味もそんなにチャチではない。…だが、フルーチェやクールンの時代は私はもう「子供」から脱却していて、お菓子そのものをそんなに食べなくなっていた。

これらの商品は今でも売っている。作ろうと思えば作れる。しかし…確かに作った記憶があるのに、影も形も見なくなった「冷蔵庫デザート」があるのだ。それが…「スリージェイ」だ。

スリージェイか、スリージェーなのかはっきり覚えてない。メーカーも分からない。「J3個」の意味だから、表記もカタカナでなく「JJJ」だったかも知れない。これが何かというと…「ゼリーのような何かの素」である。いや、何だか良く分からないのだ。確か水で溶き、少々ホイップしたと思う。それを容器に注いで置いておくと、やがて原液が「原液のまま」「やや白濁した原液」「白っぽい泡」の三層に分離する。冷蔵庫で冷やして容器から出せば、三層に分かれて固まったデザートになる、という趣向だ。曰く「一番上はクリーム」「二番目はムース」「三番目はゼリー」。…そーかなあ、これってムースかなあ…とやや疑問の残る味だったが、何たって子供だから三層分離が面白くてしょーがない。一種類しか作れない他のデザートの素よりお得な気もする。結構気に入って何度か作った。しかし、売れなかったのかやがて店頭から消えてしまった。

今でも、「混ぜると変化するお菓子」のたぐいには心惹かれる。化学実験みたいで。(^^)いい年して「ねるねるねるね」やそのお仲間の変なお菓子を買い、一生懸命作って食べる事もある。原材料は似たり寄ったりだと思うが、良く見ると色んな応用作品があるのだ。近年、柔らかい飴で「お寿司」や「パスタ、ハンバーグなどの洋食」のモデルを作って食べる、というのを試した。練るのは粘土細工と一緒で面白い。寿司のご飯粒なんか良く出来てた。ただ…それ食べる段になると。(^^;)これだけ小さい物を、ここまで手で練ったんだから半分手垢と手脂で出来てんじゃないかと不安になった。良い子はきれーに手を洗ってから作ろうね。

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予知能力・蛍光灯の傘

やまくん近年の出来事。

連れ合いのやまくんは怖がりで、オバケや霊感の話が嫌いなのだが、本人妙にカンがいい。運転中は周囲の車の動きを的確に読むし、テレビやラジオを視聴してる時、ふと彼が突っ込んだセリフを次の瞬間、出演者がそのまま喋ったりする。車はともかく、テレビなんか予知したって何の役にも立たん(^^)のだが、一度だけ彼が本格的な予知をし、おかげで得をした事があるのだ。

ある休日。彼はなぜか朝から4桁の数字が頭に浮かんでいたという。何か夢を見た気がするのだが、起きてみたら覚えていたのは数字だけだった。…その日は、やや遠方の電気屋に行く予定になっていた。蛍光灯の傘がボロボロなので買い換えようという話になっていたのだ。やまくんは電気屋から来たクジの案内葉書を見た。そこには4桁の数字を書き込む欄がある。ここに好きな数字を書き込んで持って来いというのである。

私と一緒に電気屋に行き、無事新しい蛍光灯の傘を買って店を出る。出口付近でクジの抽選をやっている。ちょっと変わった形式で、まずこの数字を書き込んだ案内葉書を係に出す。次に、箱の中に入ったボールを一つ引く。無論箱の中は見えない。ボールには数字が一つ書かれていて、これを4回繰り返して4桁の数字を出す。それが、あらかじめ書き込んだ葉書の数字と一致したら大当たり、買った商品はタダになります!…というのだ。ふつー当たらないよなそんなの。(^^)全部一致する確率は天文学的分母・分の1だろう。しかし、やまくんの初めに引いた数字は一致した。次も一致した。その次も…結局、4桁を見事に当ててしまったのだ。店員は一瞬、明らかに「ありえねー」という顔をした。後ろで並んでいた客が「へぇー、当たるんだ」と感心したように呟いた。その後、仕方なく笑顔になった店員は「おめでとうございます!」と祝福し、我々の買った蛍光灯の傘は無料になったのだ。

しかしよく考えたら…なんで蛍光灯の傘なのか。プラズマテレビとかDVDとか、高価な物を買った時に当たるならともかく、そんなん予知してまで節約する額じゃないだろー。それでも超能力は超能力、やっぱりやまくんは不思議な奴だと思う。ちなみにその後、これだけ明白な予知は一度も発動していない。そして「ありえねー当選を出してしまった」電気屋からは、二度とクジ案内葉書は来なくなったのであった。

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