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2011年4月21日 (木)

ミシンの船に乗れた頃。

子供は何故か暗くて狭い所が好きだ。「母の胎内」をまだ覚えているせいかも知れない。そんなもんすっかり忘れたこの年(^^)だと、何がそんなに楽しかったのかもう良く分からないのだが…学校に上がる前か、上がって間もない頃は、ともかく「謎の隙間」があると潜り込んでいたような記憶がある。でも、世間で子供たちがよく入るらしい「押入れ」はあまり好きでなかった。私がよく入っていたのは「ミシンの中」だったのだ。

ミシン。…今はこの機械自体あまり使われなくなったが、当時の母親は衣料代を節約するため、家族の服なんかはよく手作りした。特に子供なんてすぐ成長して服が着られなくなるし、サイズが小さくて作るのも楽だから、子供用の服や小物を母親が縫うのは普通だった。まして私の母親は裁縫や編物が得意で、一時はそれでそこそこ稼いでいた(^^)くらいだから、ミシンはうちの必需品の一つだった。…でもそれは「機械」ではなく「家具」だったのだ。何故なら木製のキャビネットになっていて、両開きの戸を開けると中に椅子が収納されている「折り畳みミシン」だったから。

ミシンを開き、椅子をどけると足踏み板がある。上部にはコポッと内部に折り込まれたミシン本体。使う時はその本体をヨイショと起こし、上部に立てて支え板で止める。これで普通のミシンの状態に。…一方、キャビネット内部の側面にはでかいはずみ車が付いている。これに皮製の細いベルトをはめ、ミシンのホイールと連結させると、踏み板を踏んだ力が回転力となってミシンに伝わり、針がカタカタ動いて縫い物が始まる…という仕組みだ。上部から天板を引き出して道具を置くスペースも作れる。足踏みミシン自体はよくあったと思うが、こういう家具調のオシャレなものは少なかったんじゃなかろうか。…だから、後年さすがに疲れた母親があまり裁縫をしなくなっても、あちこち引っ越してからも、「ミシン家具」は長い間大事にされ、ずっとうちにあった。私にとっては「いつもいる家族」のような感覚だった。そして、戸を開くといつも薄暗く、謎めいた(子供目には(^^))踏み板やはずみ車のある内部は船の機関室のように見えた。

親のいない時を見計らい、椅子をどけてキャビネットに入る。さすがに立てないので、前を向いて背を屈め、踏み板の上に座る。乗っかると踏み板はユラユラ揺れ動く。姿勢が安定しないので、横のはずみ車の端を掴むと、それもユルユルと回転する。…少しも停止しない、何とも不安定な不思議さ。私にとってその遊びは、「嵐の海、船に密航して機関室に隠れているごっこ」だったのだ。戸を閉めると真っ暗になってさらに臨場感が増す。(^^)…現実には船に乗る機会などめったに無かったのに、この遊びのせいか、私はなんとなく「船に乗って見知らぬ世界を漂流する」ロマンを持っていた。冒険物や漂流譚が大好きになった。

しかし。少し成長すると当然ミシンの中には入れなくなる。(^^)他に「お船に乗るごっこ」ができ、一人で謎の無人島の夢をむさぼれる道具はない。多少欲求不満が溜まっていた。…そんな時に発見したのが「骨の折れた傘」だ。広がる部分の骨(親骨というらしい)がペキッと過度に曲がって格好悪くなったやつ。どーせ壊れてるんだから遊んじゃってもいいだろう。(^^)…これを開いて逆さにし、その上に乗っかった。天辺の突起が邪魔するので、床に置くと傾く。やや成長したと言っても子供の体重だから、動くとぐるんぐるん転がる。どぱーん!ざぱーん!…うわぁ大波だー!何とかしてあの島にたどり着くんだー!…とかやってると、残った骨が更に折れた。(- -;)親に見付かる前に片付けた。やっぱり、ヒンヤリした鉄製のあの踏み板の船っぽさには及ばないなー、とか思いながら。ミシンが客船なら傘はイカダという所か。

もう少し大きくなり、廃材置き場の隙間なんかに秘密基地を作った頃も、あの「ミシンの船」のようなドキドキ感は得られなかった。更に大きくなり大人になり、明るくて広い場所を動き回れるようになったって、遠い世界への冒険になど出られなかった。…子供の頃に見る「暗くて狭い場所」の夢は多分、体内回帰みたいな後ろ向きな意味ではなく、これから未知の世界へ出発する、という「夢の待機場所」だったんじゃないだろうかとふと思う。

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