カテゴリー「子供の頃のやや奇妙な記憶」の記事

2011年4月21日 (木)

ミシンの船に乗れた頃。

子供は何故か暗くて狭い所が好きだ。「母の胎内」をまだ覚えているせいかも知れない。そんなもんすっかり忘れたこの年(^^)だと、何がそんなに楽しかったのかもう良く分からないのだが…学校に上がる前か、上がって間もない頃は、ともかく「謎の隙間」があると潜り込んでいたような記憶がある。でも、世間で子供たちがよく入るらしい「押入れ」はあまり好きでなかった。私がよく入っていたのは「ミシンの中」だったのだ。

ミシン。…今はこの機械自体あまり使われなくなったが、当時の母親は衣料代を節約するため、家族の服なんかはよく手作りした。特に子供なんてすぐ成長して服が着られなくなるし、サイズが小さくて作るのも楽だから、子供用の服や小物を母親が縫うのは普通だった。まして私の母親は裁縫や編物が得意で、一時はそれでそこそこ稼いでいた(^^)くらいだから、ミシンはうちの必需品の一つだった。…でもそれは「機械」ではなく「家具」だったのだ。何故なら木製のキャビネットになっていて、両開きの戸を開けると中に椅子が収納されている「折り畳みミシン」だったから。

ミシンを開き、椅子をどけると足踏み板がある。上部にはコポッと内部に折り込まれたミシン本体。使う時はその本体をヨイショと起こし、上部に立てて支え板で止める。これで普通のミシンの状態に。…一方、キャビネット内部の側面にはでかいはずみ車が付いている。これに皮製の細いベルトをはめ、ミシンのホイールと連結させると、踏み板を踏んだ力が回転力となってミシンに伝わり、針がカタカタ動いて縫い物が始まる…という仕組みだ。上部から天板を引き出して道具を置くスペースも作れる。足踏みミシン自体はよくあったと思うが、こういう家具調のオシャレなものは少なかったんじゃなかろうか。…だから、後年さすがに疲れた母親があまり裁縫をしなくなっても、あちこち引っ越してからも、「ミシン家具」は長い間大事にされ、ずっとうちにあった。私にとっては「いつもいる家族」のような感覚だった。そして、戸を開くといつも薄暗く、謎めいた(子供目には(^^))踏み板やはずみ車のある内部は船の機関室のように見えた。

親のいない時を見計らい、椅子をどけてキャビネットに入る。さすがに立てないので、前を向いて背を屈め、踏み板の上に座る。乗っかると踏み板はユラユラ揺れ動く。姿勢が安定しないので、横のはずみ車の端を掴むと、それもユルユルと回転する。…少しも停止しない、何とも不安定な不思議さ。私にとってその遊びは、「嵐の海、船に密航して機関室に隠れているごっこ」だったのだ。戸を閉めると真っ暗になってさらに臨場感が増す。(^^)…現実には船に乗る機会などめったに無かったのに、この遊びのせいか、私はなんとなく「船に乗って見知らぬ世界を漂流する」ロマンを持っていた。冒険物や漂流譚が大好きになった。

しかし。少し成長すると当然ミシンの中には入れなくなる。(^^)他に「お船に乗るごっこ」ができ、一人で謎の無人島の夢をむさぼれる道具はない。多少欲求不満が溜まっていた。…そんな時に発見したのが「骨の折れた傘」だ。広がる部分の骨(親骨というらしい)がペキッと過度に曲がって格好悪くなったやつ。どーせ壊れてるんだから遊んじゃってもいいだろう。(^^)…これを開いて逆さにし、その上に乗っかった。天辺の突起が邪魔するので、床に置くと傾く。やや成長したと言っても子供の体重だから、動くとぐるんぐるん転がる。どぱーん!ざぱーん!…うわぁ大波だー!何とかしてあの島にたどり着くんだー!…とかやってると、残った骨が更に折れた。(- -;)親に見付かる前に片付けた。やっぱり、ヒンヤリした鉄製のあの踏み板の船っぽさには及ばないなー、とか思いながら。ミシンが客船なら傘はイカダという所か。

もう少し大きくなり、廃材置き場の隙間なんかに秘密基地を作った頃も、あの「ミシンの船」のようなドキドキ感は得られなかった。更に大きくなり大人になり、明るくて広い場所を動き回れるようになったって、遠い世界への冒険になど出られなかった。…子供の頃に見る「暗くて狭い場所」の夢は多分、体内回帰みたいな後ろ向きな意味ではなく、これから未知の世界へ出発する、という「夢の待機場所」だったんじゃないだろうかとふと思う。

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2011年3月17日 (木)

小さ過ぎる命。

母の実家の田舎にいた時。…まあ昔だし、元々古い農家なので、長いこと火力は薪だった。ご飯もお風呂も薪で焚く。ご飯の火力にはそれなりの技が必要(^^)なので、私は触らせてもらえなかったが、風呂の火の番はよくしていた。じいさんが短くした丸太を斧でパコンパコンと割った薪が、くくられて家の裏に積んである。火付け用の細い枝をまとめた物もある。それらを使って火を焚く方法を、子供ながらに覚えていた。

薪はいきなりあぶったって火は点かない。かまどに数本太い薪を入れた後、上に細い小枝を適量突っ込み、更に新聞紙を丸めて隙間に入れる。マッチで火を点けるが、この時点で燃えるのは新聞紙だけだ。紙だから勢い良く燃え上がるが、すぐ消える。燃えているうちに小枝に引火させねばならない。小枝は細いだけあって乾燥してるから、これもすぐ火が点く。火力が上がって来たら、更にその上に薪を乗せ、今度は本格的に薪を燃焼させる。…割って積んで乾かしてあるとはいえ、元が生木だからこれだけやらないと中々燃えないのだ。松が多かったから、燃え始めるとヤニが染み出し、火力が上がる。そこまで来たらもう普通に他の薪を突っ込んでも大丈夫。…子供ながらに火掻き棒を持ち、薄暗い風呂かまどの前にしゃがんで、真っ赤におこったオキを見張りながら火力を調節する。自分にそれが出来る事がある意味楽しく、誇らしかった。だからよく頼まれもしないのに火の前にいた。

ある夜。かまどの土間にしゃがんでいた時、ふと足元を見ると、小さな変な物体が落ちている。1㎝ちょっとくらい。ピンク色。うごめいている。なにっ!?…ともう一度よく見たら、それは確かに何かの赤ん坊…いや、「胎児」のような形をしていた。…胎児。目を閉じ、小さな四肢をちょこんと出したあの姿。人間も、他の動物も、母親のお腹の中で発生し始めた頃は似たような形をしている。どこで見たんだか忘れたが、その頃はもうそんな事を知っていた。…まさか人間の子供?…って訳はないだろうから動物だろう。でも、見た目はそれもこれもそんなに変わらない。何の子供? …うごめいている。毛のないピンクの皮膚のまま、土間であがいている。このままじゃ死んじゃう。なんかドキドキしてくる。何か食べさせなきゃいけないんじゃないかな? ミルク? …でも何の動物か分からないのに、普通のミルクなんか飲むんだろうか? …助けてあげたいが、どうすればいいか分からない。第一触るのが恐い。「おばあちゃーん!」…そのまま祖母に知らせに行った。

良く覚えてないが、多分「そんなもんネズミの仔だろうから放っておけ」とか言われたような気がする。…ネズミだったら、助けたら家の迷惑になるかも知れない。がっかりし、助けられなかった罪悪感に少々苛まれた。気が付いたらもういなかった。誰かが捨てたのかも知れない。…でも、たとえばネズミだとしても、多分まだ生まれた直後か生まれる寸前、くらいの小さいやつが、一匹だけ放り出されてた理由は何なんだろう。その理由は大人になった今でも分からない。

真っ赤なオキの照り返しの中、「命は大事だ」と教えられたのに、放置するしかなかった小さ過ぎる命が、足元の土間の上でうごめいていた姿は今でも忘れられない。 

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2011年3月11日 (金)

まあ子供にそんなアニメをっ

この話は…まあちょっと番外編という事で。(^^)昔のアニメに詳しい人しかピンと来ないかも知れない。

私は「ルパン三世」のファースト、あのいまだ評価の高い作品のテレビ放映の前に…伝説の「パイロットフィルム」を見た記憶がある。確かだ。気のせいではない。…まだ小さかった。私は幼稚園の頃から「漫画家になる!」と豪語し、漫画大好きだった。それで私が喜ぶと思ったのか、母親がある日アニメのイベントに連れて行った。…というか、何かのイベントの前座だったのかな。そこで見たのだ。まあ当時の呼び名は「アニメ」でなく「テレビまんが」だが。テレビで放映するものはテレビまんが、劇場アニメは劇場まんが、もしくは長編まんが。世間の認識では漫画とアニメの間に見境はなく(^^)、「どちらも同じ子供向けの、つまらないもの」程度に思われていた。そのくらい軽んじられていたのだ。…アニメ全盛時代に生まれた人たちには信じられないかも知れない。

そんな時代、世間の偏見をぶち破る大人向けアニメとして製作されたのが「ルパン三世」だ。…といってもその後いろいろ紆余曲折がある。(^^)ファーストシリーズはクオリティは高いものの、「子供ウケ」せず視聴率が低迷し、打ち切りとなった。それが再放送で高年齢層に火がつき、人気となって第2シリーズやその後の作品が作られる。つまりファーストのルパンが一番「大人向け」な訳だが、このファーストのテレビ本放送前に「パイロットフィルム」が作られていた。そのクオリティは半端でなく、キャラクターも更にハード。視聴者でなく、原作者や関係者に見せる為のプロモーションだったのだ。いわば「ルパンの原点」である。…伝説にはなっていたが、一般にそれが流れたのは私がもう上京してた頃。ファーストの20年もの後である。なのに…私はそのパイロットフィルムの内容を確かに「見た事があった」。

…以下はおぼろげな記憶である。そのイベントは、割と小さい劇場のような場所で行われていた。舞台では司会のおねーさんがマイクを握っており、アニメのキャラクター型に抜いた立看が3つばかり並んでいた。一番右端が「ルパン三世」。走ってるルパンの足元に土煙が立ってるような図柄だ。あとの二つは…どーしても思い出せない。ルパンと違い、普通の子供向けアニメだったと思う。おねーさんが「これから始まる、新しいまんがを紹介しまーす♪」みたいな解説をする。やがて幕が降り、試写会のようなものが始まる。…ルパン三世。いきなりマシンガン撃ちまくり!ええっ? その後…まあこれは今は動画サイトに上がっている(^^)ので、内容はそこで見て欲しいが、銭形が将棋の駒をぶん撒き、ルパンが笑い、次元が撃ち、五ェ門が跳び… 人はバンバン撃たれるわ、不二子は全裸でベッドにいてルパンが飛び掛るわ。子供の私は考える。「全然、おねーさんの雰囲気と違うやん。まーあたしはこのくらい平気だけど(←生意気)、こんなの子供に見せちゃっていーのかしら」…母親は「失敗した!」と思ったんじゃなかろうか。良く分からんが。

そしてテレビ本放送を見る。オープニングは何度も変わったが、あそこで多く使われていたのがパイロットフィルムだ。特にルパンの登場人物の紹介ナレーションで進行する、「俺の名はルパン三世」ってやつ。…ルパンは笑ってるシーンでアゴ向けてるし、とっつあんはいきなり将棋の駒を撒いている。子供だから「この絵が出るなら、あの話(パイロット版)もそのうちやるだろー」とか思っている。…出ない。「なんだー、これじゃこの場面しか見れない人、何の事だか分かんないじゃん」とか思う。峰不二子もなんかこーゆーのと違ったような。…テレビで放映されるアニメには、色々「大人の事情」がある事を知るのはもっともずっと先だった。ただしかし、当時一部関係者しか見てなかった筈のルパンのパイロット版を、「子供を集客するテレビまんが」と思い込んで使ってしまった…あのイベントは一体何だったのか。それだけがいまだに分からないのだ。

…それでもルパン三世にはそんなに残虐な描写はないし、エロと言っても脱ぐ程度だ。(^^)教育上悪いって程ではない。しかし…それよりもっと見てはならぬものを、確か中学の頃に見てしまったのだ。もう子供でもないので、親と一緒に映画なんてそんなに行かなくなっていた。なのに、珍しく母親が「アニメに連れてってあげる」と言い出した…んだと思う。細かいいきさつは忘れたが、ともあれ私と母親は上映会に向かった。それは「虫プロアニメ一挙公開」みたいな催しだったのだが…

メインはあの、「アニメラマ三部作」だったのだ。(^^;)

この一言では分からない人のために蛇足を付けると、それは虫プロが大胆に大人向けを狙って製作した、劇場用のエロい長編アニメである。(^^)「千夜一夜物語」「クレオパトラ」「哀しみのベラドンナ」…そらもーHしまくり。それでも千夜一夜はストーリー自体にスケールがあるし、実験的な(=子供には良く分からん)部分やアクションも多く、「映画」として見られる。クレオパトラはもっとエロいが絵が柔らかく、全体に手塚風の「どーでもいいギャグ」が満載されていて(キャラデザインは小島功ですが)毒気は多少和らいでいる。だからこの二本はテレビでも何度か放映された筈だ。…ところがだな。「ベラドンナ」はなー。(^^;)…まー凄いんだよ。ミシュレの「魔女」を元にしてるだけあって、エロが冗談でなく本気なの。まず絵が違う。「マンガ」じゃなく美術的官能イラスト。だからこれだけは、いまだテレビで放映された事はほとんどない筈だ。とーてー流せる内容ではない。(^^;)大体、初っ端から幸せな花嫁がゴー○ンされるんだ。その傷付いたヒロインの元にポコ○ンの形をした悪魔がやって来て、それからあーなってこんなコトして…うわぁうわぁ!そーかHってあーするんだ!(←初めて知る)残虐シーンはほんとに残虐で、媚薬のせいだか何だか忘れたが、女王が身分の低い小姓と浮気をする場面がある。ベッドで重なってたら夫の王(領主)がやって来て、上から二人をまとめてぶってえ剣で串刺し。(^^;)…さすがに。中学生には刺激が強過ぎた。こりゃちょっと早いなと自分でも思った。

鑑賞後、母親は…何て言ったか覚えてないが、「ちょっとHだった」くらいは呟いた気がする。多分「虫プロの手塚アニメらしいから安心ね」という深刻な誤解をし、少年漫画にはまってドカンバキンばかり読んでる私に、「少しはいい物を見せよう」…みたいな判断でこのイベントに連れて来たんじゃないかと思う。…「しまった!また失敗した」と思ったかどーかは定かでない。(- -)

まーそういうファーストインパクトの元に育った私ですが。(^^)別にぐれもせず、立派にただの大人に成長した。子供はショックを受け易いけど、適応するのも早いんですよね。

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2011年3月10日 (木)

メロスはマジ走った

…これは私個人の話ではないので、書いていいもんか悩んだんだが。(^^)今でも強烈に覚えてるし、カンドーしたのであって、決しておちょくる気はないからやっぱり書いておこう。

小学6年だか中学だか。年代は忘れた。まあ、そのくらいの頃。…いわゆる文化祭。今はどうだか分からないが、各クラスが必ず舞台で何かやる事になっていた。大体はお芝居である。子供が脚本を書いて子供が演じる訳だから、そう本気で面白いとか、見られるよーな作品はあまりない。場所はもちろん「体育館」だ。…どこでも大抵そうだと思うが、正面に舞台があって、横が舞台袖。舞台袖に引っ込んで階段を下りると、体育館内のアリーナ側に出るドアがある。それともう一つ…ここには体育館の裏に出られる鉄製のドアがあった。裏は確かゴミ焼却場、石炭置き場などがあったから、ゴミ捨てや石炭運びに便利なように付けられたんだろう。

文化祭は各クラスが順番にこの舞台袖から入り、演じ、終わると引っ込んで席に戻る。自分たちが登場している間以外、生徒は観客にもなる。いちおー終わったら審査や表彰もあったと思うから、他のクラスの演目は「む、こいつらどのくらいうまいんだ?」という感じでそれなりに見ているが、大抵は「まーこんなもんね」というレベルだから…段々退屈はしてくる。(^^)それでも自分たちが演じた時は拍手して欲しいから、他のクラスにもちゃんと暖かい拍手を送るのだ。…「次は○組の『走れメロス』です」というアナウンス。なんでぇ、教科書に載ってるアレか。友情を大切にってヤツだな。また硬くて面白くないネタ選んだなー…などと、見る前は完全に期待してなかった。

芝居は、教科書で読んだ通りの展開。オリジナルじゃないから台本書くの楽だったろう、などと可愛くない事を考えながら見ている。でも原作がしっかりしてる(^^)訳だし、真面目に演じているからこれがそこそこ見られる。メロス役の男の子は上半身裸で、ちゃんとギリシアっぽい雰囲気を出している。…話は進み、いよいよメロスが約束を果たすため走るクライマックスシーン。ナレーター役がト書きを読む。「メロスは走った」

メロス役が走り出した。…と言っても、そんなに広くない舞台の真ん中あたりから向かって左、つまり下手の舞台袖に走り出したのだから、あっという間に姿が消える。…しーん。何も起きない。舞台の役者たちも何もしない。…あれ? 時間が経過していく。主役のメロスがいなくなったまま芝居は止まってしまったのだ。どーしたんだ? さすがにちょっと不安になった頃、メロスが突然反対側の上手から走り出てきた。「メロスは走った、なんたらかたら」とナレーション。来た!…と思ったら、彼はそのままタッタッタと舞台を横断し、あっという間に再び下手へ消えてしまったのだ。…しーん。再び待たされる。何だろーなー…と思ってたら、メロスはまた上手からタッタッタと走り出てきた。

そこでよーやく気が付いた。メロスは下手に引っ込んだ後、袖の外扉から体育館の外に出てタッタッタと走り、上手側の外扉から再び中に入り、上手から登場していたのだ。…つまり体育館の中と外を通り、ぐるぐる周回していた訳。外扉から行き来するには階段を上り下りしなきゃならない…そのメロスは演技ではなく、ほんとーに大変なランニングをしていたのだった。(^^;)舞台を往復すれば済むものを、わざわざ周回したのは…往復では「前へ走り続けた」感じが出ないせいなのか、それとも「大変な距離を走った」というのを実践したかったのか。それを彼が通った時だけ見られる観客は、マラソンのギャラリーのような立場だった事になる。いつまで続くのかと思ったが…3回くらい周回したかな。やっと終わりが来て、メロスは到着、親友と殴り合ったりひしと抱き合ったり、王様も喜びめでたしめでたし。私はカンドーし、思わず惜しみない拍手を送ってしまった。無論芝居にではなく、走り切ったメロスの根性と体力に。つまりマラソンの感動と同じ。…よく考えたら、芝居ではなくそっちで感動を呼ぶという、○組の周到な戦略だったような気もする。

ところで…この時の「メロス」くんは、まあそんなに親しくは無かったんだが、たまたま家が近所だったので小、中、高と学校が一緒だった。同窓会で会った時住所を聞いたので、今も年賀状だけは出している。…こんな話書いちゃってごめんね。(^^)でも、君の偉業は決して忘れない。

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2011年3月 5日 (土)

赤ちゃんはどこから…っておい。

赤ちゃんはどーやって生まれるの。(^^)今は情報が氾濫しまくってるから、子供は嫌でも早いうちに知るんだろうな。…私がそういう事を疑問に思ったのは、小学校の1,2年だったと思う。母親に聞いてみた。さすがにコウノトリさんが運ぶとは思ってなかった(そんな鳥見た事なかったし)が、お母さんのお腹から…までは分かるものの、どーやって出て来るのかが分からない。そこんとこを具体的に尋ねたのだ。母親は顔色一つ変えず、服をめくって自分の下腹部を見せた。

「ほら、線があるやろ。ここがパカッと割れて出て来んねん。だから入院するねん」

母親が示したのは「妊娠線」だった。子供の私は「なーるほどー」と納得してしまったじゃないか。(^^;)…妊娠線は妊娠すると出る線。私を生んだ時の名残りだろう。おかげで結構長い間、「子供はお腹の皮が割れて生まれる」と信じていた。…でもそれじゃ「100%帝王切開」みたいなものだし、たまたま野外で産気付いて生んだ人の場合、大変な事にならないか?…と、更に疑問が沸いて真相を知るのはもっと後の事になる。

小学3年くらい。その頃はもう、漫画家になる気で漫画ばかり描いていた。…クラスに、同じように漫画を描くのが好きな子がいて、くやしいが私よりややうまかった。(^^)ある日、彼女が「私の描いた漫画を見せてあげる」というので彼女の家に遊びに行く事になった。家でしか見せないというのだ。

彼女の部屋。…机の引き出しの奥から、私が使ってるのと同じようならくがき帳を出して来る。いやに慎重に仕舞われてるなー。…めくる。コマが割ってあり、それなりにストーリー漫画ぽいものが描かれている。絵は当時の少女漫画で、マツゲが長く髪が複雑。しかも割と等身の高い美男美女で、話はラブストーリーらしい。3年生にしてはちょっと背伸びした感じだ。私は昔から「ラブストーリー」にはあまり思い入れがないもんで、ふんふんなるほど、と軽く読み流していった。…しかし。ノートの終盤に入って漫画は驚くべき展開を見せた。ラブシーン。男女の登場人物が全裸(^^)になり、ベッドシーンが始まったのだ。うわぁこいつこんなん描いてたのか!…クライマックス。裸でベッドに横たわった女の上に男が覆い被さり、「すきだ」と言ってやらしい所を触っている絵。うわぁ、うわぁこの先どーなる!…ページをめくる。突然赤ちゃんらしきものが登場し、次のコマはお腹の大きい妊婦の「断面図」になる。断面の中に胎児。…え!? そしてとーとつに物語は終わってしまった。作者を見ると、彼女は真面目な顔でこう言った。

「いや、話にどーしても赤ちゃんを登場させたかってん」

…いや、だからって何もHシーンと断面図を描かんでも。(^^;)小学3年、彼女はその時持っていた知識を総動員して「赤ちゃんが生まれるプロセス」を描いてみたに違いない。ただ、最もやらしいシーンでも「触る」までだったし、赤ちゃんがお腹から出て来る場面もなかったから…「なんかHな事をする」のと「子供が出来る」現象の間に何が必要か、という知識はスッポリ抜けてたのだろう。(^^)彼女がその後、漫画を描き続けたかどうかは分からない。ただ、この出来事はあまりに衝撃的だったので、私にとっては軽いトラウマになった。ベッドシーンの次のページをめくると、いきなり「妊婦の断面図」になってやしないか。…心配で、その後Hなシーンを見ても冷静になってしまうようになったのである。

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2011年2月27日 (日)

毛糸のパンツの大冒険。

これは私の、子供の頃の記憶の中で一番古いものだ。(^^)…生まれは、大阪のとあるボロい「文化住宅」だった。文化住宅というのは、関西の高度経済成長期にボコボコ建てられたアパートの名称である。どこか「文化」かというと、長屋と違って「一軒ずつ別にドアとトイレが付いている」というだけ。風呂はない。ドアが違うというだけで壁は長屋並みに薄いから、お互いの生活音も筒抜けで、実に隣近所のフレンドリーな(^^;)環境。…記憶ではちょっと石段を下った、湿っぽい窪地にあった。幅30センチほどの裏庭は完全に日陰で洗濯物が乾かない。だから階段の付いた共同物干し台があり、子供たちの遊び場になっていた。(私はよく転げ落ちた)…まあ、つまり表通りからは目立たない場所だった訳だ。

もう顔も思い出せないが、隣だかその隣だかに同年代の男の子がいて、よくその子と遊んでいた。まだ幼稚園に上がる前だったと思う。幼なじみ、生まれて最初のボーイフレンドだな。(^^)でも、まだ男女の違いなんて理解してないからただの友達だ。…ある日、何がきっかけかは不明だが、私はその子と一緒に「遠い所に行ってみる」事になった。物干し台にも飽き、穴倉のような自分の家を離れて冒険してみたくなったんだろう。…文化住宅の石段を登り、てくてく歩き出す。歩く。歩く。ただ歩く。ほんの近所は知ってるが、それより遠くは見た事がない。何の変哲もない町なのに、小さい子供にはただそれだけで未知の世界への大冒険だった。

幼稚園以下の子供だからお小遣いなんて持ってない。もちろん交通手段は使えない。…だんだん疲れてくる。雨上がりだったのか、道には水溜りも出来ている。根性で隣町くらいまで来たのかな。「もう帰ろう」という話になった。…今度は逆に歩き出す。日がゆっくり傾いてくる。おかしい。こんなに遠かったっけ…歩いても歩いても知ってる場所に出ない。疲労すると、帰り道が遠く感じる事なんかその年では分からなかった。二人で手をつないで…だんだん涙ぐんで来る。足が重くなる。ついに私は水溜りでこけた。

その当時…というか小学校に上がるまで、私は母の手製の「毛糸のパンツ」を履かされていた。(^^;)すぐ寝冷えしたり、お腹を壊す子供だったらしい。だからその時も毛糸のパンツ。それで水溜りに突っ込んだんだからたまらない。パンツぐっちょり! 気丈な幼女の私も、ついに「びえーっ」と泣き出した。男の子困る。こんな気持ち悪いんじゃ歩けないよう! で、どうしたかと言うと…パンツ脱いだ。(^^;)脱いだパンツを片手にぶら下げ、さすがにもう手はつながず、更に二人は歩き続けた。つまり…人通りの多い町の中を、下半身すっぽんぽんの女の子が、男の子と一緒に泣きながらてくてく通過していく…という光景だった訳だ。日がもう赤くなってきた頃、やっと自分の文化住宅に辿り着いた。家の前では大人たちが騒ぎになっていた…ような気がするが、その辺はもう思い出せない。ただ大泣きしながらも、自分の足で冒険し、自力で帰って来た事に私はちょっと満足していた。

小さかったとはいえ。(^^;)…見せびらかしながら町を歩いたんだもんなあ。それでも無事に帰って来れたのは、まだ時代が今ほどすさんでなかったからかも知れない。大人は誰も助けてくれなかったが、悪さをしようともしなかった。子供にとっていい環境って、そういうもんじゃなかったかと今でも思う。

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2011年2月22日 (火)

窓抜けの達人技。

それがいつで、どこに住んでた時か、もう判然としないのだが。小学1,2年では小さ過ぎて届かない。5,6年生では大き過ぎて入らない…と思うから、多分小学3,4年の時だったと思う。

その頃、私はいわゆる「かぎっ子」だった。今はそういう呼び方はしないと思うが、要するに昼間は親が働いているので、鍵を持って学校に行き、もしくは鍵をどこかに置いてもらい、帰ったら誰もいない家に鍵を開けて入る…という子供の事である。もう普通なのかな。当時はまだ「お父さんは仕事、お母さんは専業主婦、だから子供が家に帰ったらお母さんがいるのは当たり前」という時代だったから、かぎっ子という言葉には「淋しいだろうから可哀想」というニュアンスがあった。…なんの。(^^)私は母子家庭歴が長かったし、母親がそーとーアクの強い性格で、正直いない方が楽(^^;)という面もあったし、何より1人で勝手に遊ぶのに慣れていたから、特に問題があるとも不自由とも思っていなかった。要はちゃんと鍵があって、家に出入りできればそれでいいのである。

その日、どういう状況だったのかはもう思い出せない。鍵を持って行くのを忘れたか、勘違いがあって鍵の置き場所が分からなくなったか、何かそんな事だったと思う。…学校から帰ったら鍵がない。家に入れないのだ。私は軽くパニックになった。親がいなくても驚かないが、せっかく帰って来たのにカバンが置けない、お茶も飲めない、部屋のらくがき帳も使えなければマンガも読めない、テレビも見られない…しかも母親の帰ってくる夕方まで。そんなのは嫌だー!…という訳で、必死で家に入る方法を考え始めた。無論、押せど叩けどドアからは入れない。

当時いたのはマンションかアパート。一戸建てには住んだ事がなかった。正面突破は無理なので周囲を探索する。裏に回ってベランダの向こうの、風呂場の小窓が開いているのに気付く。…あそこ以外入れる可能性はないな。でもベランダに直接上がれた訳はないから…多分、よそのお宅のベランダにどうにか潜り込み、そこから敷居を乗り越えて自分の家のベランダに辿り着いたんだろう。その程度の事はやらかすガキだった。で、どうにか自分ちのベランダに入り込み、風呂場の窓から潜入を開始した。…が。ここからの記憶がはっきりしないのだ。風呂場の窓というのはいわゆる「回転窓」で、どんなに開けても斜めになるだけで決して全開しないタイプ。潜り込もうにも大した隙間はない。なのに、私は四苦八苦してそこを通り抜け始めた。

結果的にいうと…かなりの時間を掛け、ついに私は風呂場の窓を突破した。幸い水の抜かれていた湯船に着地し、「やったー!おうちに入れたー!」と大喜びで中から鍵を開けたのは覚えている。…でも、どーやって。それがいまだに分からないのだ。頭から窓に突っ込んだんだとしよう。当然頭から落ちるから、無事では済まなかったろう。斜めの窓に阻まれて、途中で体勢を変える事は出来ない。…じゃあ足から潜り込んだのか。そもそも風呂場の窓自体が、小学生の子供には高過ぎる位置にある。何かを踏み台にして上ったとしても、そこに足先を入れるのは逆立ちでもしない限り不可能だ。で、当時もその後も私は逆立ちなんか出来ない。一体あの窓抜けはどうやったんだ…

子供は体が柔らかいし、体重も軽い。大人になった今となっては想像も付かないアクションで抜けたんだろうとは思う。でも目撃者も誰もいないし(大人が目撃してたら騒ぎになってたろう(^^))、今となっては謎としか言いようがない。…ただ、見事通り抜けた達成感の直後に、「あ、こんな事ができるのはこれが最後だろうな…」とぼんやり考えた事は覚えている。子供の時にしか出来ない事、分からない事というのは結構あるのかも知れない。

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2011年2月19日 (土)

記憶喪失を知らない子供たち

母がマンションの管理人を始めた頃かな。まだ、マンション自体が珍しくてそこでよく遊んでいた。…と言っても人が住んでいる部屋の前で騒ぐ訳にはいかない。屋上や外周である。屋上に出るフロアには、ベンチなどを収納してある待合室のようなスペースがあった。屋上自体は吹きさらしで何も無いし、誰も来ない小部屋なのでちょっと秘密基地(^^)のような風情もあったから、一時期は友達とよくそのフロアに入り浸っていた。

その日は「無人島漂流ごっこ」か何かをしていたと思う。その頃は翻訳された「15少年漂流記」がよく読まれていたし、そういうアニメや海外ドラマもあったから、「無人島に漂流」というのは子供にも分かりやすい設定だった。まして当時の私は漂流物が大好き。「大きくなったら無人島に漂流しよう!」という完全に現実を見誤った(^^;)ロマンさえ持っていた。…で、「無人島に流れ着いた」という設定の私がはっと目覚める。周囲を見回す。

私「ここはどこ? 私はだれ?」

しかしツッコミが入った。「ちょっと待って。なぜここにいるの、と思わなきゃ変じゃない?」…それはそうだと納得し、テイク2。

私「ここはどこ? 私はだれ? なぜここにいるの?」…今度は別の友達からツッコミが。「今日が何日か、も分からないんじゃない?」…仕方ない、テイク3。

私「ここはどこ? 私はだれ? なぜここにいるの? 今何日?」…しかしリテイクは終わらない。「記憶喪失なんだから、自分の家とか、年とかも忘れてるよね」「なぜこんな事になったの、とかも聞いた方がいいと思う」「あと、これからどうしたらいいの、とか」…

その後。私のセリフはどんどん長くなっていったのだった。はっと目覚めては、友達の言う項目を付け足していくので際限がない。

私「ここはどこ? 私はだれ? なぜここにいるの? 今何日? 私の家はどこ? 私は何歳? これからどうしたらいいの? 食べるものはあるの? 他に誰か住んでないの? ここはどこの国の…」もう記憶も定かでないから、詳細は当時と違ってると思うが…まーそんな風に、およそ「記憶を失くしたら疑問に思うであろう事」を全部並べるハメになったのだ。(- -;)なんか記憶力ゲームに似ている。何項目まで暗記したのか、どーやってこの事態を終了させたのかはもう思い出せない。ともあれ、終わった時はゼーゼー言って「記憶喪失って大変だなあ」と思ったのだけは確かだ。

幸いにしてこの年まで記憶を失くした経験はないが、不慮のうたた寝をしてハッと目覚め、寝ぼけてしばらく自分が何をしてたのか思い出せない事は時々ある。そういう時は「ここはどこ?」とも「私はだれ?」とも思わない。「あー……何だっけ。何か食ったっけ。まーいいや」くらが関の山である。人間、あまり自分を問い詰め過ぎてはいけないと思うんだな。(- -)

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2011年2月16日 (水)

扁桃腺物語。

これは、私の人生を大きく変えた、扁桃腺手術の物語。(^^)

小さい頃…私はすごく病弱で、食も細かった。ご飯時になると逃げ回って、母は苦労させられたそうだ。学校でも食べるのが遅く、給食がいつまで経っても終わらない。昼に掃除をする事になってたから、まだモソモソ食べている私の机だけを残し、当番が他の机をガタガタ後ろへ下げてしまう。始まった掃除の横で、取り残された私は1人半泣きのまま給食を食べ続ける。…その上頻繁に40℃近い高熱を出した。扁桃腺が弱く、すぐに腫れるのである。母は夜中に医者に走らされる事もしょっちゅう。相当参っていたようだ。

…で。最近はあまり勧められないようだが、当時は「扁桃腺手術」がすごく流行っていた。流行ってたと言うと何だけど、ちょっと熱を出す子供がいるとすぐ「切りましょう」と言う医者が多かったのだ。そんな訳で、ついに私の母も医者に手術を相談した。かしこまっている私と母を前に、耳鼻咽喉科の医者は難しい顔で言った。「お子さんを歌手にするつもりはありますか?」…はあ?私はあまりの唐突さに目がてんてん。母はそんなつもりは無かったし、私も将来漫画家になるつもりだったので、「ないです」と答えた。医者が言うには、扁桃腺を取ってしまったら歌手になるのは無理なんだそうだ。今は扁桃腺切除のデメリットとして「風邪を引きやすくなる」「免疫が弱くなる」なんて言われてるようだが(そんな事はない、という解説もある)、私にとって扁桃腺はただ歌手への登竜門に過ぎなかった。(^^;)…そんな訳で、手術する事になった。

局所麻酔で、意識があるまま口を「あんが」と開けさせられ、口の中に冷たい金属の鉗子やメスを突っ込まれる。「痛くない?」「はがはが」…痛くは無いが、目の前で自分の体の一部を切り取る所を目撃させられるのだから、ショックは並大抵ではない。手術は無事終わり、私の扁桃腺とアデノイドは切除された。やがて医者はホルマリンに漬けた扁桃腺を見せた。…スモモくらいある。でけえ。こんなんが無くなったのか。医者には切ったモノを家族や本人に見せる風習がある事をこの時知った。…あれってどーなのと思うけど。(- -;)

しばらく学校は休み。一週間ほど、痛くてつばも飲み込めなかった。というか「つばを飲み込んではいけない」と言われた。一々口を洗いに行くから大変である。喉の中には甘苦い薬を塗られる。これがヒジョーに不味くて食欲も沸かない。ただ、何故か「トマトジュースだけはいい」と言われたので、数日間主食はトマトジュースになった。…実は、それまで私は好き嫌いが多く、トマトジュースも大嫌いだったのだ。なのにこの時飲んだトマトジュースの美味しかったこと。(^^;)…食料それだけだったからかも知れないが、私は自分の食が変わったのを感じた。

さーそれから。…私は完全に人格が変わった。ゴハンがうまい。何杯でも食う。好き嫌いも無くなった。給食はクラスで一番に食べ終え、他の肉の嫌いな子供が残してたら「それちょーだい」と意地汚くもらって食べる。熱も出さないから元気一杯。うまくはないが歌もちゃんと歌える。病弱な美少女(?)は、活発でやかましい関西のガキに生まれ変わったのだ。してなければ、全く違う人生を歩んでいただろうと思う。…ただし手術をしても「相変わらず熱も出すし、デメリットの方が大きかった」という人もいるようだ。これは体質によると思うので、万人がそうはならない事をお断りしておきます。<(_ _)>私の場合は体が適合した。

ただまあ…障害物がなくなり、喉鼻が弱くなったのは確かなようで、小学6年くらいの頃は「アレルギー性鼻炎」が酷くなった。しょっちゅう鼻が詰まり、授業中だろうが見境なくハナをかむ。机の上は鼻紙だらけ。ついに「鼻の神」というあだ名が付いた。(- -;)おかげでシリアスしてても通じなくなったので、それ以来ギャグ志向になった。…という深刻なデメリットはあったものの、大人になってこれも治ったし、歌手にもならなかったし、何よりメシがうまい人生になった事は今でも感謝している。

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2011年2月14日 (月)

バレンタイン無情。

あまり心温まらない話だから、書くか書かないか迷ったんだが。(- -)

中学くらいの頃。その時代はまだバレンタインデーが定着し始めた初期で、「義理チョコ」だの「友チョコ」だの浅い関係のプレゼントは広まってなかったし、季節になっても今ほどゴージャス商品や、大々的なチョコレート商戦はなかったと思う。バレンタインに小中学生がふつーに買うのは、某メーカーの薄っぺらいハート型のチョコ。確か100円くらいで安かったのだ。それでも…男子でないので良く分からないが、男の子はかなり意識してたかな。だからその時代にチョコを渡すのは、「渡す」というだけでかなり本命度が高かった。

バレンタインが近いある日、クラスの女子が「ねえ、カンパに協力してくれない?」と言ってきた。何のカンパかと聞くと、なんでも「クラスの女子からお金を集め、クラスの男子全員にチョコレートを送ろう」という企画らしいのだ。この季節には、もらえる男子ともらえない男子の間に「格差」が出来てしまう事は知ってたし、義理チョコの概念が確定してなかったとはいえ、友達複数に安いチョコをあげて人間関係良くする…くらいの事はあったから、私もあーいいヨと軽い気持ちでカンパに応じた。(100円くらいだったと思う(^^))漫画やアニメではしゃいでただけで、色恋沙汰にまったく疎かった当時の私には「お歳暮やお中元みたいなもんね」という感覚しかなかった。…そして、企画者はチョコを大量に買い込んできた。カンパが安かっただけあって、例のハート型チョコレート。

それから…どうしたのか知らない。私は企画にはタッチしてなかったので、その事件が起きるまでカンパの事なんて半分忘れていたのだ。バレンタインデー当日、それは起きた。気付くと教室中に大量の砕けたチョコが散らばっている。ゴミ箱に、机の下に、明らかに無茶苦茶に踏み付けられて粉になってる物も。今現在腹立たしげにチョコを攻撃してる男子もいる。…そう、プレゼントは完全拒否されていた。聞いてみると、企画者は普通に「これ、クラスの女子一同から」と言ってチョコを渡した訳ではなかった。ご丁寧にチョコ一つ一つに「○○くんへ。このチョコの事は誰にも言わないでね」という手紙を付けて机に入れておいたらしいのだ。…言わないでったって。近所の机で誰かがチョコを見つけたらすぐ分かるじゃん。その辺の詰めの甘さがまあ…中学生な訳だが、要するに男子はプレゼントを「全員が本命チョコのふりをしてからかわれた」と受け止めたのである。それが無闇な怒りを呼び、あの惨状になったという訳だ。…でも、当時の企画者のために弁明しておくと、彼女らは決して悪気はなかったと思う。悪気で金まで集めたり、面倒な手紙を一つ一つ書いたりするだろうか。(- -)

…以下は想像だが、「普通に渡しても、本気じゃないんだから喜ばないよね」「だったら本気っぽい手紙を付けよう」「でも、同じ手紙なら分かっちゃうじゃん」「『誰にも言わないで』って書いておけばいいのよ」…くらいなノリで、ともかくウケようと思ってこんな演出をしたのではないか。でも、その後このチョコ事件は禁句状態になり、誰も触れようとしなくなった。だから私も事態の詳細は知らないままだ。ただ、自分のカンパがあんな形になり、普通に食べればおいしいチョコが無残な姿になったのは、ちょっとやるせなかった。

それ以来、私は「チョコで愛情表現しよう」なんて考えは全く無くなった。(- -)そんなお菓子屋の陰謀に乗せられる事はないと。一応義理のある男子が群れている時、12個くらい入ってるチョコの箱を目の前で開けて、「はい義理。はい義理」と言って一同に配った事があるくらい。男性というのは、想像以上に繊細というか、考え過ぎる生き物だ…という事を学んだので、誤解を招くような事は極力したくないのだ。それでも今、連れ合いのやまくんは、本来甘い物大嫌いにも関わらず、バレンタインになると「チョコくれチョコくれ」と請求する。持ってないとその1日が無事に過ごせないかのように。たかがお菓子を「そこそこモテる、という身分証明書」にしてしまうのはいかがなものかなー。

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